2024,4,19 ピンポンとスーパーカー

Netflixでピンポンのアニメが見れるようになっていた。

数ヶ月前、古本市場で買った鉄コン筋クリートにどハマりしたことから、ゆるっと松本大洋ブームが来ていた。

 

数年前に兄が「『ピンポン』って漫画知ってるか?絵が癖あるけど漫画もアニメも実写映画もめちゃくちゃおもろいらしいねん。買おうか迷ってるんやけど」と話をしていたが、「卓球漫画がおもろい訳あるかい!ほんで変な絵やなこれ、ようみいひんわ」と突き放してしまったことをこの上なく後悔している。

 

鉄コン筋クリートですっかり松本大洋にハマってしまったことから、いろんな記事などで彼の作品について調べた。個人的には作家でも芸人でもアーティストでもなんでも、作品と作り手のバックグラウンドを無理やり結びつける感じは嫌いなのだが、なんとなく気になったので色々調べていた。ほんで大体どの記事を読んでも、ピンポンの話が出てくるもんだからここ最近はいつピンポンの漫画を買おうかという感じだった。ちょうどその時にアニメが見れるようになったので、当然一気見した。

 

アニメがあまりにも良かったので、Amazonプライムでレンタルできる実写映画の方も即レンタルしてこれもすぐみた。

いずれも、これまで見てきたものの中で群抜けに良かった。

 

これまでそれなりに漫画を読んできた中で、結局スラムダンクとキングダムの面白さに敵うものはないとあらゆる場所で主張してきたが、間違いなくこん中にピンポンも入ってくる。まだ漫画は未読やけど。とりあえずアニメの中ではブチ抜けて面白かった。

 

大学生も終えた今見てこんなにアツくなれる作品があるか!?卓球で!?11話完結やのに!?という感じ。

ペコ、スマイル、アクマ、チャイナ、ドラゴン 全員に憧れるし同情する。

才能と嫉妬と挫折にスポ根が絶妙な塩梅で入ってるおかげで、グサグサ刺さりながらも爽やかに感動を得られるバランス、神がかってる。

 

個人的な話をすると、スラムダンク以降、割と意識的にスポーツ漫画は避けて生きてきた。

というのも、高校でサッカー辞めたことに対してえげつないコンプレックスを抱えていたので、スポーツ作品含め熱い系の作品やら、それこそ高校サッカー、野球やら何かにつけて傷がゴリゴリに抉られる。と思っていた。

 

幼稚園の時にすぐ近くの公園でサッカースクールがやってたことからサッカーを初めて、そこにいためちゃくちゃサッカー上手い友達がなんかチームの中でも「育成コース」なるものに通っているらしいということを聞いて、後を追うように自分もそこに入れてもらった。

当然サッカーは当時ヘタクソだったが、親に「リフティング10回できたら入っていいよ」て言われたことで毎日めちゃくちゃ泣きながら夜までリフティングしていたことを覚えている。

やっとのことで育成チームに入ることを認めてもらえて、指導者やチームメイト、周囲の環境にも恵まれてなんだかんだでチームとしてかなり強い方になった。

依然足は遅いし体格もヒョロかったし気は弱いから多分サッカーには向いてなかったけど、リフティングだけは努力に比例して面白いほど回数が伸びてくるので、常にチーム内で一番であろうとしていた。最高記録が出たらみんなに言って、他の奴がそれを上回ったらまたアホみたいに夜まで泣きながら越えるまでリフティングして、、を繰り返して、気づいたら小4で1万回くらいできるようになっていた。それ以降は回数にこだわる雰囲気じゃなくなってきたけど、それなりの努力の甲斐あって足元のテクもなんだかんだ身についたし、何より努力を認めてもらえて上のカテゴリに呼んでもらえるようになった。

チームとしてもヘラヘラしたチームだったので、ヘラヘラしつつもサッカーがめちゃくちゃ上手い人間の中、ビクビク真面目にやってようやく張り合えるようになってたなあと思う。真面目やから副キャプテンにもなったりして、なんだかんだで上の学年でも県優勝のメンバーになれて6年生の頃も県優勝と全国大会を経験できた。

ただなんせ気が弱かったので、学年が上がってよりシビアになってくる中で敵味方問わず厳しい声が増えてくるとめちゃくちゃ萎縮して「早よ終われ終われ終われ、、、ベンチ下げてくれ下げてくれ下げてくれ、、、、」と思いながらプレーしていた。

あとは普通に当時からめちゃくちゃ隠れ厨二病だったので、「闘魂出す感じとか、競り合いとかダサいって笑」と考えていたせいで、スマートに勝つ(と当時まじで自分では思っていた)のこそがカッコいいという考えのもとで競争心たるものが見事に磨耗していった。

 

中学に入ると、小学校時代県選抜関西選抜がモリモリいるクラブチームでオドオドしながらプレーしていた自分でも部活の中ではそれなりに輝けるわけで、見事に入学直後から鼻をグングングングン伸ばし始めた。普通にいかつい人間が多かったので人間としては依然ビビり散らかしていたが、3年生のBチームの試合にも出してもらえてるし!とか思いながらBチームの試合でパスせずに自分でシュートまで打ってドヤ顔することもあった。今思えばまじで恐ろしいことをしていた。

ただやっぱり中学生の社会は怖いので、段々先輩をはじめチームメイト、部活以外の友人などいろんな目が気になりだす。どういうきっかけかはいまいち覚えていないが、中1の夏ぐらいには、元々大して上手くないくせにプライドはあって、かつミスすることを過剰に恐れるというめちゃくちゃ厄介な人間になっていたと思う。多分、よくある調子の悪い日から始まり、気付けば自覚もないくらい萎縮しながらプレーすることが当然になっていた。

小学校のリフティングの頃くらい素直に努力できれば良かったものの、相変わらず変なプライドと厨二病のおかげで、サッカー自体を投げ出してしまった。そこからは悪循環に悪循環を重ね、気づけば全国出場もベンチスタートが常になっていた。

 

まあこれくらいよくある話といえばよくある話なのだろうが、中3の夏以来、それこそ最近まで何かにつけてこのことがフラッシュバックするくらい自分にとっての後悔とコンプレックスになっている。高校に入った時も、結局びびってサッカー部ではなく軽音同好会など生ぬるいにも程がある環境を選んでしまったおかげで、一生拭えない黒歴史になった。生ぬるい中でぬくぬく育ってきてしまったことに対する後悔と怒りだけがあるので、今も自戒に自戒を重ねるような生き方をしてしまっている。

 

 

 

ピンポンの話がいつの間にか反省文になってしまった。

とにかく、作品中のペコでもスマイルでもなければ、チャイナやドラゴン、アクマにすらなりきれなかった自分にとって、自分を重ねることすらおこがましい程に彼らが輝いて見える。(自分ごときが感情移入するなとは思っているが)登場人物一人一人に共感することもあれば同情することもあり、すごく切ない。

見る前に抱いていた、コンプレックスや卑屈な感情も全部掬い上げて昇華させてくれる程全ての面で完成度がレベチの作品だから、ほんまにみんな見てくれ〜〜〜〜〜〜〜〜と思う。

 

 

実写映画の方も良かった。

これもまたI.W.G.Pを観て以来、窪塚洋介が好きになったのだが、窪塚洋介のペコ役が面白いくらいベストマッチしていた。

あとは何より、劇中で使用されていたスーパーカーの曲との相性があまりにも良かった。

 

 

 

 

 

「一番好きなバンドは?」と質問されたら、多分「スーパーカー」と答える。

他にも沢山好きなバンド、長く・多く聞いてきたバンドは山ほどあるが、一番ビビビッとくるのは間違いなくスーパーカーな気がする。

中高時代から何かとスーパーカーというバンドの存在程度は知っていたが、まともに曲を聞いたのは高校の後半から大学にかけてくらいだった。

初めは、シューゲイザーバンドとして数曲好きなものがあるというくらいだったのが、気付いたらズブズブにハマっていた。

なんと言えばわからないが、スーパーカーはどれもとても懐かしいというかノスタルジックというか、「なんか昔から聞いてたよな」みたいな感傷を与えてくる。 キッズステーションのCMでやってた、虹色のめっちゃでかいハケとか何十色もあるクレヨンとか、階段からビョンビョン落として遊ぶ虹色のバネのおもちゃとかなんかそういう系の、昔めっちゃ憧れてたものに抱いてた当時の感情がブワアっと蘇ってくる感じがする。これは懐かしさの比喩とかじゃなくて、結構まじでスーパーカーきいてたらこういう存在していたかどうかもあんま覚えてない、懐かしい景色が見える感覚になる。

 

 

ここからはきしょい個人的なドラム論 何目線やねんという指摘は承知

理由はよくわからんが、ドラム叩く時もスーパーカーの曲が一番気持ちいい。そら好きなバンドやねんから楽しいやろ、っていうのはそりゃそうやねんけど、好きとかを置いても一番没入できる感じがある。

 

ドラムをやる上での個人的なこだわりというかポリシーというかこうしたいなっていうイメージとして、コピーする曲から個人的に受けた初期衝動!みたいなのを噛み砕いてプレーに反映したい!と思っている。

言語化が難しいけど、めっちゃイキった言い回しをすると「ドラムをコピーするというよりも、一鑑賞者として曲を聴いて、その時に感じたイメージを元に再解釈して、自分ならどんなドラムを叩くか」という理想を漠然と抱いている。

やから一概に好きな曲やかっこいいと思う曲がそのまま演奏の楽しさとか気持ちよさに比例するかというとそんなことはなく、「曲としてめっちゃ好きやし、気持ちも乗って演奏もバッチバチになる曲」「聴いててかっこいいし好きやけど、それだけで演奏するには別にええかなみたいな曲」「あんま曲の良さはわからんけど、プレーしてて(テクニック的に)色々あって演奏する分にはそれなりに楽しい曲」「その他」みたいな感じで別れてる。

で、無論最高のエクスタシーを感じるのは最初のやつやねんけど、こん時はまじで自分でドラム叩いてて泣きそうになるくらい良い。

まあそんな気持ちの入り方の一つ二つで演奏を使い分けれるテクニックはないから、側からみたらただただマックスフルパワーでドラム叩いてるだけになってまうんやけど、個人的にはこれでも色々感じながら演奏しているつもり。

やから、カラオケの「音程合ってて点数が高いのと、歌が上手いのは別だ!」論じゃないけど、人の演奏とかプロのライブ見てても、「こいつらまじかっけえ!やばすぎる!アツすぎこうなりたい!!」と思う時もあれば、「上手いけどこんなんじゃ何も感じん!しょっぱい演奏してんちゃうぞダサいんじゃコラ!!」と思う時もある。その人とかバンド自体の好き嫌いの如何を問わず。

 

ほんで、これを踏まえてスーパーカーの曲はまじで演奏しててぶちキマる。

なんかスーパーカーの曲を演奏するときは、「足もつれそうになりながら突っ張って突っ張って走ってたら、気づいたら地面なくなって飛んでた!」みたいなことを感じている。ほんまに何言うてんねんって感じやけど。

ただ、よくスーパーカーの曲が「浮遊感」みたいな感じで言われているので、あながち大きくそれてもないのではないかと思っている。

曲によっても当然違うけど、なんかこんな感覚を軸に、スーパーカーの曲は聴く時も演奏する時も情景のイメージがズズズっと滲んで現れてくる感じがしてたまらん。

 

音楽の理論的なこととかコードすらも何もわからないので、何がそんなに自分の琴線に触れるどころか思い切り弾きまくってるのかはよくわからん。ただ、一ド素人の考察としては、絶妙な余白が曲のイメージを増幅させているのではないかと!考えている

楽器の入り方、歌い方、歌詞、それぞれにある言葉足らずな部分がちょうど良すぎる気がしている。

 

そう考えると、ピンポンはじめ松本大洋の作品も、余白が多いところが好きなのかもしれない。

アクマの「少し泣く」は多分四文字の日本語の中で一番かっこいい。間違いなく。

 

 

 

作品についてペラペラ薄く語る素人を弾圧する部隊の隊長なので、これ以上のうっすい言及はしない。

なんせ、この世で嫌いな人種の一位が「M−1の漫才中に喋る人間」二位が「M−1の漫才後に講評する人間」(M−1に限らないが)なほど「素人は黙っとれ!!!!」論者なので。

 

 

 

話が縦横無尽に逸れたが、ピンポンとスーパーカー、あまりにも良い。人生の殿堂入り。

2024,4,12 重力ピエロ 生きるためのサッカー 老人と海

この1週間で三冊の本を読んだ。

同じものを一つに絞って読み続けるとすぐ飽きるので、最近は何冊も並行して読み進めている。

 

重力ピエロ/伊坂幸太郎

生きるためのサッカー/ネルソン松原

老人と海/ヘミングウェイ

 

多分人生で初めて好きになった作家が伊坂幸太郎で、その中でも初めて知った作品が重力ピエロだった気がする。

タイトルのキャッチーさにより始めに目についたが、小学生の自分にはあんまり分からなくてすぐに読むのをやめてしまったままだった。

それから高学年・中高大と一通り伊坂作品は何かしらの形でほとんど網羅したが、重力ピエロはなんか読んでなかった。部屋の整理をした時に出てきたからようやく読む気になった。

多分、自分が何かしら文章を書くときの全体としての雰囲気や洒落の入れ方は伊坂幸太郎を意識している気がする。当然足元にも及ばないが、なんとなく文章のモデルとして抱いている。それだけあって、やはり多少重いテーマでも軽快でズンズン読めていける伊坂作品の面白さを痛感した。読書感想文は苦手なので内容に関して特に書き出すことはないが、面白かった。

そういえば伊坂幸太郎の作品ではビートルズ斉藤和義の名前・曲名が頻繁に出てくる。自分がビートルズやオアシスなどに触れるきっかけは『ゴールデンスランバー』を読んだことだったと思う。今でもビートルズの中ではゴールデンスランバーが一番好きな曲だ。

 

『生きるためのサッカー』は、日本で初めてサッカー留学生として日本に来た日系ブラジル人の方の自伝本である。大学の卒業式の日、ゼミの先生が下さった本だった。自伝本は大学の課題でマララユスフザイのものを読んだ以来だったと思う。めちゃくちゃ失礼やけど大学の先生が勧める、それもみんなに配布するレベルということと、ただの移民の自伝本であるということがなんかミスマッチな感じがして、どれ読んでやろうじゃないかという感じで読んだ。 これも思っていたより面白かった。

 

 

今日はバイト前に周辺で勉強した。交通費ですら惜しいほどの金欠なので、バイトのためだけに移動するのが勿体無いと思ったから5時間くらい早くきてスタバのテラス席で世界史の勉強をしていた。大学受験で一度一通り勉強したとはいえ、ほとんど全て忘れてしまっていると思いきや、やってみると点は残っているもので割とスラスラ進んだ。

授業動画を見るためのiPadが電池切れになってしまったので、休憩がてら近くのブックオフに行った。

なんとなく外国人作家の棚に行くと、目の前にヘミングウェイの『老人と海』があったので、読んでおこうと思い手に取った。すぐ近くにゲーテの『ファウスト』も並んでいたので、それもなんとなく買った。それぞれGalileo Galileoとブッチャーズの曲名になっている作品なので親近感があった。あとは大学一回生の時にイキって履修したドイツ文学の授業でゲーテの『若きウェルテルの悩み』は読んだことがあり、しかも直後に授業で行ったビブリオバトルもイキって同作品で臨んだ結果学科内で準優勝してしまったという経験があったので、あの時は世話になったな、賢そうな雰囲気出すための道具に使ってごめんな、という気持ちでゲーテも買っておいた。

老人と海は、100ページちょっとの短い小説だった。老人がめちゃくちゃデカいカジキを釣るために何日も闘って、ようやく釣れたと思ったらサメに追われてボロボロになりながら帰るというだけのストーリーだったが、これはかなり面白かった。ハードボイルドなおっさんが、めちゃくちゃ丁寧な条件描写とかしながらひたすら踏ん張るだけで面白いのすごい。名作と言われるだけあってやっぱり短い割に印象に残る本だった。

 

交通費を有効活用するために早よ行ったのに、結局スタバと本二冊分の出費してしまった。バイト前に腹減りすぎてもマクドに寄るのだけは我慢した。110円で名作小説が買えるという事実に触れるたびに、自販機やコンビニにふらっと寄ることがいかに無駄かを実感させられる。

結局バイト終わりに30円オフのななチキを食べてしまった。悔しい。

2024,4,5-8 能登半島

桜がいい具合に咲いてきた。

社会人になった友人達が初めての週末を迎えて飲みに行ったり愚痴を言ってるストーリーがたくさん流れてきて、なんとなくやっぱりソワソワする感じがする。

 

一月に能登半島地震が起きて以降、所属団体のディレクターや周囲の人たちが個人的に様々な形で災害支援を続けている。この三ヶ月間で彼らが何度も神戸と能登半島を行き来して現地のスタッフ・ボランティアの方々などとやり取りをする中でできた繋がりから、今回自分も初めて能登半島に行った。

 

今回、災害支援に行くにあたってかなり迷いはあった。

これまでのボランティア活動や私生活の中での動機として大きかったのが、「自分がこうありたい・役立ちたい」という純粋な気持ちというよりもむしろ、電車や大学で何も考えず無責任にフラフラしているおっさんや大学生を見て「こうはなりたくない」と思うところからくるものであった。

 

高校時代、通学中に駅で誰もが見える位置に明らかに落とし物の鞄があるのに、全員そこを避けて見て見ぬふりをする場面に遭った。その鞄を駅員に届けようとしたら、戻ってきたであろう持ち主が「それ、僕のなので」と自分の手から乱暴にぶん取って行ったことがある。

高校帰りの電車内で、まだ中身の入ったコーヒー缶が電車の動きに合わせて車両内をずっと転がっている場面に遭った。コーヒーをぶち撒けながら何駅分も放置されている缶と、水溜りを避けて車両を移動していくおっさんが見ていられなかったので、自分が降りる時にゴミ箱に捨てて帰った。その時に、一緒にいた友人に「お前、えらいな」と言われて無性に腹が立ったことがある。

全部、ただの善意ではなかったと思う。こんなしょうもないことをわざわざ無視して誰かに押し付けてる奴らがきしょすぎて、そいつらへの当てつけとして自分が処理をした、の方が正しいと思う。本当に些細な出来事であったが、自分の動機の不純さとそれに気づかず「えらい」と言ってくる存在の違和感があまりにも印象的で、ことあるごとに思い出す。

 

ただ今もそれはあんまり変わってなくて、何か選択をするときに「こうしたい」「こうありたい」という選び方ではなく「こんなんにはなりたくない」という消去法と義務感に駆られることが多い。

結果的にそれが誰かのためになっていたとして、完全な利他精神ではなく利己的な利他であるという気持ち悪さが未だにある。大学四年間で、少しづつ「誰かのために」という純粋な思いに触れる機会もある一方、常に「結局それってただの自己満ちゃうん」という考えが浮き沈みしている。

 

そんなこんなで、自分が災害支援に行くかどうか考えた時に、こんな仮言命法でのボランティア活動が果たして誰のためになるんだ、と思った。「就活で使えるから」と安易にボランティア活動に参加してちょうど良くエンジョイしてる人間と何が違うねん、と思った。

結局、断る勇気も無く、あるいは「ボランティア活動しない自分」になる道を避けるために、今回災害支援に行くことにした。

 

 

 

5日の夜に能登七尾駅に集合であったため、昼行便バスで京都から金沢まで向かった。

今回能登で活動するにあたり、これまでの災害の経緯や現状を知っておかないと、と思い、バスの乗車中は情報収集をしていた。隣に座った、恐らく金沢に帰る最中である大学生らしき男は、MacBookの大画面で5時間ずっと違法漫画サイトと風俗の情報を見ていた。

 

金沢から電車で1時間半、七尾駅に降り立つと、すぐに地震の影響が至る所に見られた。地面の煉瓦は割れて盛り上がり、ガラスの割れた建物もあった。

一緒に移動していた友人が、「ばあちゃんが石川に住んでて、嫌なことがあったら七尾の海までバスで来てストレス発散するねんて」と話をしていた。ヘッドライトで照らしながら海まで向かうと、当然ではあるが駅前よりも酷い様子だった。ベンチが設置されていたであろう部分が、地面ごと大きく海に張り出していた。

よく災害直後の夜空は驚くほど綺麗だったという話を聞くが、その時も空がめちゃくちゃ綺麗だった。あんなに星をはっきり見たのは久々だと思う。

 

七尾駅から、自分達の活動拠点まではさらに車で1時間半ほどの場所にあった。道中、地割れや隆起、土砂崩れの影響で常に道は悪く、乗っていたハイエースはずっとバウンドしながら進んでいた。地震から三ヶ月が経ち、ようやくインフラは突貫工事で整備されつつあるものの、マーブル色のアスファルトや宙に浮いた状態のガードレール、不自然に浮き沈みしている道路は災害の影響を強く感じさせた。

グーグルマップはすごいもので、通行量などの交通情報をリアルタイムで収集するおかげで、交通量の激減=道路状況の異常 と判断してその道を避けるようになっているらしい。おかげで道が途中で完全に遮断されるということはなかった。

 

深夜の1時ごろに、宿泊先に到着した。ボランティアセンターのすぐ隣に位置する、旧消防団詰所を拠点として提供して頂いた。

本来、現在も県外からのボランティアは受け入れていない(受け入れ先や食糧・水等の問題による)が、企業や団体であれば、一定の条件を満たした上で様々な登録を経て県外からも参加できるということだった。

我々は普段野外でキャンプをしている為、食事や水の使用等、全て自分達の責任の内で自己完結できるということで受け入れて頂けた。ただ、ここに至るまでにも二ヶ月以上要しており、行政や組織の難しさを感じた。今回の復興の手際の悪さには、やはりボランティアの扱いが大きな要因としてあるという。不要不急の支援を牽制したところ、必要緊急の支援すら行き届いていないという印象を受けた。

 

活動の流れとしては、各地域に設けられたボランティアセンターに向かい、人数や力量に合った被災者からの依頼とのマッチングを受ける。依頼に応じて、トラックなども出しながら適切なチーム編成が行われ、依頼者の要望を聞き取りながら現地で活動を行うというものであった。現状、最低限のインフラの復旧は出来たが瓦礫の撤去などが何一つ進んでいないため、主に居住地域における瓦礫の撤去・運搬がメインの活動であった。住居によって被害の幅はあるものの、津波で一階部分が丸ごと持って行かれた家や、煉瓦が崩壊したために雨漏りがひどく、家中水とカビに侵食された住居、大きな岩が思いきり突っ込んだ寺などに向かった。

 

 

 

以下、団体のメンバーが作成した報告文

 

B日程 1日目
4月6日(土)8:45-14:30 作業 
地区 さん宅
 今日は朝から夕方まで、さん宅にて、倒壊家屋の外に出してある災害廃棄物の分類、撤去、運搬をしました。
 玄関の前には、倒壊した家屋のがれきや木材、家電、家具、割れたガラスや食器などの災害廃棄物が山になっていました。そして、倒壊した家屋の木材は、非常に重い柱、釘がささった状態がほとんどで、20歳前後の私たちでもかなりの力仕事だと感じる程でした。しかし、ご夫婦が代わる代わる私たちの作業しているところを歩き周りながら、「ほんと、助かります。ほんと、ありがとうございますね。」と声をかけてくださいました。ほとんどが捨てるものとお聞きしていたけれど、途中、やはりとっておきたいと最後に伝えてくださるものもあり、その度に、私たちが今関わらせてもらっているものは、宮本さんたちの生きたすべてであることを感じ、なんだかこう、ぐっときました。
 昼後は作業の休憩も兼ねて、白丸公民館を伺いました。そこでは、さんから、新しい仮設住宅のお話しや津波が来た時のお話しをききました。
 旦那さんが、「能登はやさしさ土までも」このことわざを教えてくれました。その言葉の通り、さんは生まれも育ちも能登、海が好きで海が遊び場で夢は海の仕事をすること、その夢を叶え定年した今もそしてこれからも能登に住み続ける、そう仰っていました。それまで笑顔で元気だった奥さんは帰る時、突然溢れんばかりの涙を流して「本当に皆さんが来てくれて助かった、有難う。  でも、情けないね。」と言っておられ、そんなこと、絶対思わせてはいけないと思いました。今日は、災害廃棄物の撤去を主にさせてもらって、それらは一件形もなくて崩れていてはやく撤去した方がいいと思うかもしれないけど、私たちはさんの思い出がつまった家なんだ、ってことを手を動かしながら絶対忘れてはいけない、そう思い、言葉を交わしながら作業をすること、とても大切だと思いました。

 

B日程 2日目
4月7日(日) 8:30〜12:00作業
地区 寺(真言宗) さん宅
作業内容: 家屋周辺の屋根瓦片付け、落下物、木材撤去、ウッドデッキの解体撤去

立派な日本家屋のお寺の本殿と、隣接した住居の周りには、地震によって落ちて割れた沢山の瓦があり、主にその撤去作業。住職のお父さんとお母さん、息子さんご夫婦と作業を行った。
「自分たちでやるつもりだったんだけど、限界でお願いしました。」申し訳なさそうに出てこられたお母さん。段々と綺麗になっていき、「やっぱりこっちも、これも運んで欲しい」と表情も明るくなった。軽トラで7回分の瓦、Yバン満載の網戸・撤去したウッドデッキの木材の運搬。「元々1日で終わらないと言われていたのに、午前中で終わるなんて思ってませんでした。本当にありがとうございます。」【完了】


12:45〜15:30作業 【継続】
地区 さん宅
作業内容:津波で流れた瓦礫の撤去と運搬、家具の取り壊しと運搬、瓦礫の分別

納屋と母屋の一階部分は家具、家電、衣類すべてが海水と泥で汚れ、隣の家の家具などが流れ着いている状態。車を3台停めるためにまず駐車場を綺麗にして欲しいと始まった作業。母屋で家具の取り壊し運搬。泥の中から出てくる想い出の品。母子手帳や写真は家主に聞き、処分。涙目で作業を見守っていた。庭では津波の影響で絡まり合った瓦礫の分別。15時の集積所終了時間後、次回のボランティアが作業しやすいように分別・整理整頓。軽トラ5回、Yバン満載1回。【継続】

【さん】
さんご家族と瓦礫の撤去を一緒に行う中で、地震後すぐにご本尊をたてに倒壊した家屋に戻られたという話を聞きました。上日寺は細くて急な坂道を登った先に森に囲まれた450-500年の歴史があるお寺です。
ボランティアは住居での活動が優先だ、ということで自分たちで作業をされてきたそうですが、今回お手伝いをしてそれがどれだけ大変だったのかということを感じました。瓦は分厚く1枚1枚が非常に重く。「何回か腰が砕けたかと思ったわ」と笑って話すお父さん。今回男手が7人いる中でも大変な体力を使う作業でした。
「1月1日から時が止まってるんだよ」このお母さんの言葉の通り、家に突っ込んだ大きな石も、割れた窓も、落ちている瓦も、全てがその時の一瞬の地震によって起こり、そこで止まっていると感じました。
「来てくれて本当にありがとうございました。こんなに綺麗になるなんて思ってなかったです。お願いしてよかった。」またこのお寺、ご家族の時間が動き出すお手伝いができたことが何よりも嬉しかったです。

【さん】
口数少なく、涙目でウロウロされていたお父さん。片付けも、「もう取り壊すだけやから大きいの退けてもらうだけで大丈夫です」と。泥の中から出てきたさつまいもやにんじん、聞いてみると「農家だからこれは作ったんや」と少し笑みを浮かべて話をされていました。瓦礫の中から出てきた写真には娘さんの結婚式で一緒に写っているお父さん。自分たちにできることは、と改めて心が締め付けられ、力が入った瞬間でした。

 

4月8日(月) 8:50~13:30 作業
地区 さん宅
準半壊の判定がでているお宅での作業。割れ物、瓦の廃棄。大型家電なども一緒に使えないものは廃棄。判定は終わっていないが瓦が外れ、雨漏りのためカビと木材が腐っており、二階には侵入不可能。襖、畳、カーペット、仏壇、外回りの園芸用具、瓦の撤去、床下収納の瓶類の廃棄。2トントラック3回満載、Yバン2回。
雨に濡れたことで家の中全体が水浸しで、カビが生えている中での作業。濡れた畳などは重く男手の活躍。【完了】

明るめの声で話されているけど、やっぱりどこか元気のないお母さん。「ほんとは住みたいけど、難しいよね。」と生まれ育った能登だからと丁寧に作業されておられました。額縁に入った、女性の顔が載った新聞を見つけると「これ、私なんだよ」とふっと張っておられていた気が軽くなるように笑っておられました。子ども服の責任者をされていたみたいです。帰る時に「きれいにしてくれてありがとう」と深々とお礼をされました。何回もボランティアが入っておられ、やっと終わりが見えたように精神的にも果てしないなと思いました。全てを感じ取ることはできないけど、少しでも元気がでるように動きたいです。

 

 

 

男手は瓦や箪笥など力仕事が山積みであったためあまり被災者の方と直接話す機会はなかった。

しかしその中でも、泥と瓦礫の山で彼らの家族や友人との写真、母子手帳や旦那さんの遺骨、仏壇などを見た時は胸が締め付けられた。

一つ一つを名残惜しそうに眺め、一見ガラクタのように見えるものですら、苦虫を噛み潰した顔で「これもどうにもならんから、捨ててしまってください。仕方ないです。」と話す表情は忘れられなかった。

 

正直言って地震発生から三ヶ月経過しているとは到底思えない景色だった。現状でボランティアセンターへの依頼はその地域だけでも700件を超えるという。 長年住んだ家、ましてや高齢者の方が多い中、ぐちゃぐちゃになった自分の家や思い出の品を自分の手で片付けるなんて想像に耐えない。作業量としても途方もないが、それ以上に精神的に背負い切れるものではないだろう、と思う。この三ヶ月間、その絶望の中で支援を待っていたのか、まだ700件以上もそのような人たちがいるのか、と考えると、やるせなくなった。

また、二日目に向かった寺の息子さんは非常に明るく聡明な方で、我々と一緒に声を出しながら作業を手伝ってくださった。被災前は、キャンプや登山に没頭していたエネルギッシュな方だった。作業が終わり、改めて依頼書を読むと「初めは遠慮して自分達でなんとかしようと思いましたが、限界でした」と書いてあった。あんな人でも「限界」に感じるほどの辛さは、自分には想像できなかった。

また、その方も「被災直後は、当てつけかと思うほど景色が綺麗だった。星も空も、息をのむ美しさで涙がでた」と話をしてくださった。

 

 

二日目には、より被害の大きな地域の避難所を訪問した。所属団体の、富山支部の方が運営する避難所であった。

テレビでよく聞く輪島に位置するその避難所周辺は、我々でも立ち入りが禁止されるレベルの倒壊家屋で溢れていた。トイレやお風呂も仮設トラックで、避難所では弁当で栄養補給としての食事を摂っているという。

人気の無い廃れた街を抜け、避難所である小中学校の前を通ると、小学校中学年くらいの女の子が、低学年かそれより小さいくらいの男の子と女の子の手を引いて楽しそうに走り回っていた。思えば、能登に来て初めて子供の姿を見た。 想像以上の惨状に唖然とする自分達とは対照的に、無邪気に笑う子供達の後ろ姿はとても印象的だった。

避難所となっている木造の学校は、まだ木の香りがするほど新しく綺麗な建物で、教室前の掲示物や発表資料がそのままに残されていた。この地域の子どもたちは、翌日から学校が始まるということだった。

 

 

帰り際、バンの中でディレクターが「普段やってることが初めて役に立ったな。お前らも初めてちょっとは人の役に立てたんちゃう。生きてて良かったやん」と言っていた。普段鬼監督のようで、男子を褒めることはほとんど無いディレクターからの冗談まじりの褒め言葉は嬉しかった。また、「やっぱり、自分の為じゃあんなに動けへんよ。今回も被災者の方と話したら頑張ろうって一層思えるようになったみたいに、誰かのためにじゃないとこんなに力を出すことはできないから。」と言っていた。

自己満足で利己的な利他精神からボランティアに参加していたつもりだったが、途中からは現地の方達の役に立てること、直接これまで受けたことがないくらい大きな感謝をしていただけること自体が喜びになっていたような気もするな、と気づいた。 

 

よく考えたら諸々合わせて2万近く自費をかけて一日中働いたこの数日を振り返って、「来て本当によかった」という思いが始めにくるだけ、少しはマシな人間になってきているのかもしれない。

 

今回の能登を踏まえて、もっと現地の方の役に立てるようになりたい、と思うと同時に、今現在自分の周りにいる人たちもこれまで以上に大切にしないといけないな、と感じた。これはありきたりすぎて不要な感想だったかも知れない。

 

 

今乗ってる阪急でちょうどBeRealが来た。

向かいの女子大生が車内でぶつぶつ言ってるヤバめのおっさんの隠し撮りをしてニヤニヤしてる。ウケると思ってるんか知らんけどそういうお前の汚さもハッキリ写してて確かにこの上なくBeRealやな。皮肉やな。こんなやつにはならんとこ。 と思った。

 

 

 

 

2024,4,4 一年の土台作り

2日の夜に、東京から帰ってきた

 

重要な年度の初めなので、やはり初めが肝心ということでこの二日間は今後の計画の土台を作ることにした。

 

まず、教員採用の試験日程や募集要項のまとめと、ついでに教員用のエージェントサイトにも登録を行った。

基本的には関東の私立中高を中心に見ているが、案外募集は始まっているもので想像以上に早めから就活に向けたスパートを持ってこなければならなそう。

私立の教員採用時期は薄く広く伸びているので、この年内はなんだかんだでずっと就活(教員の)をすることになるんだろうなという感じ。

 

そう考えると、ここまで勉強してこなかったことにかなり焦りを覚え、ようやく社会科の勉強にちゃんと手を出し始めた。

中学時代の教科書、高校の日本史を噛み砕いた教材に資料集、図録を開いて照らし合わせながら、まずは高校入試レベルをおさらいする。その後高校教材に移り、中学教材で作った要所要所のポイントを補強し、センターレベルまで持っていく。。。

これを地歴公民分やる。。。と考えたらかなり時間がない。まあそこまで完璧にしていく必要はないのだろうけど、どうせ来年までには一通り教えられるようになっておかないといけないので、やるからにはちゃんとやろうという感じ。

自分は大学受験の時に社会をおざなりもおざなりにしていたので、その時のツケが返ってきている。センターの悪夢だけで十分痛い目は見たはずやのに。。。

 

の一方で、最初の記事で書いたように科目だけできたところでこの一年の意味は全くない。

今年度上半期は就活と勉強+バイトでお金を貯めた後、下半期にデカい計画を持って来れたらとは考えているが、早いうちからいろんな布石は打っておいた方が良い。

年間計画のうち、大きな軸として考えているのが、wooffという簡単に言えば農業番ワーホリみたいなもの。

金銭の発生はなく、双方向的なギフトで成り立つ御恩と奉公的なシステムで動いている。我々は主に有機農家の方のもとで数日間〜数週間仕事の手伝いをし、代わりに受け入れ先の方々は宿泊先や食事、さまざまなお話を伺う機会を与えてくださるという感じ。

農業そのものに大きく関心があるわけではないが、農業を営む方々の話や、このようなプロジェクトを受け入れている理由など、そこに関わる人の話に強く興味がある。これも大学の先生に教えてもらったものであるが、ぜひいろんな場に行って面白い経験ができたらと考えている。

 

ということで、wooffの登録も行った。なんか4月中は平日毎日バイトを入れられてしまったため、5月以降間を縫っては活動できたらいいなと考えている。

 

明日からは能登半島に向かう。8日の夕方までと比較的短い期間だが、自分の目で被災地の状況を知ることと初めての災害ボランティア活動に入り込む絶好の機会なので、しっかりと焼き付けて来れたらと思う。

 

2024,4,2 帰滋

先月の23日から東京に来て残りの学生生活を楽しんだのも束の間、滋賀に帰る日になった。

 

と同時に、本格的に遠距離恋愛も始まった。

東京駅と相手の職場の中間地点くらいで別れる時は変な感じがした。あんまり実感はなかったけど、東京駅に歩いて戻る間久しぶりにきのこ帝国を聴いたらジンとくるものがあったから多分これからひしひしと感じることになるんやと思う。

 

東京から京都へ昼行便の高速バスに乗るのは初めてやったけど、高速バスはいつもなんかウキウキするから楽しみだった。

いつも長距離移動の直前までは、あの映画観よかなとかあの本読んだろとかあの連絡せなあかんなめんどくさいなとか色々考えるけど、乗ってしまったらボーッとしてるだけで信じられんくらい時間が進むからあんまりいつもうまくいかない。

今回は今読んでる本の読破と、最近ネトフリで話題になってる三体を観ることを目標にした。

 

田舎っぺなので、初めのうちは東京の景色を見てやろうと思って、三列シートの真ん中からメガネをかけて必死こいて外を見ていた。人ごみには気乗りしないけど、バスの中から見て回る分には快適で楽しいものだった。

 

なんか悔しいけど、東京はやっぱ普通にいいところなんかもしれん、とこの1週間ちょいで思うようになった。

やはり東京と言えば、冷たくて忙しなくて気の休まらない住みにくい場所だというイメージを勝手に持っていたけど(基本ただの逆張り意識からくるものなんやけど) むしろ住みて〜とすら思うとこもあった。

この期間拠点にしていた東十条は、安すぎるスーパーやらいい雰囲気の商店街やら、どことなく下町感溢れるめちゃくちゃいいところやった。同年代くらいの人はあまりいないとは言えそれなりの人口は安定してるからこそなのだろうが、じいさんばあさんやいろんな国籍の人がやってる個人店も立ち並び、夕方には時報が流れるちょっと古い雰囲気の街が今も東京にあるんかと驚いた。これがいわゆる「人情味あふれる」なのか、、、?!と感じた。

自分の地元は、滋賀の田舎とは言え比較的新しい町なおかげで「田舎」って感じることはあまりない。「田舎」て言葉と、それにくっついてくるいろんなイメージから、人間関係の部分を取り除いた感じ。ただの住宅街で、「人情味」とか「暖かい空気感」どうこう語れるタイプの田舎ではないから、東十条の生活に結構憧れを抱いた。

 

 

とかをボーッと考えながらバス乗ってたら普通に寝てて、気づいたら富士山がめちゃくちゃ綺麗に見えるパーキングまで来てた。

そこからは起きてたけど、本読もうと思ったら車内は暗いしトンネルばっかりやしで思うように読めず、電波も立ったり消えたりで辛気臭かったのでただただボーッとしてた。

結局、アマプラで友人に観ろと言われた『パッチギ!』を観た。

バスで観るのにちょうどいい、わかりやすくて面白い映画だった。フォーク・クルセダーズが使われまくってて良かった。

勧めてきた友人は、冗談まじりに「お前は劇中のオダギリジョーや」とケラケラしていた。ろくな役回りでないんだろうなと思いながら観たけど、予想以上に友人の言葉はパンチ力のあるものだった。今年道を踏み外した世界線の俺やろこれって感じがしたので、オダギリジョーにはならないように気をつけたい。

2024,4,1 フリーターになってしまいました

4月です。

2001年生まれの人の多くがまさに今入社式を迎える中、東京の赤坂、オールスター大感謝祭でワイナイナが芸能人をごぼう抜きするくらいの所にあるマクドナルドでこれを書いています。

 

先日大学を卒業し、本日年度が切り替わると同時にここにフリーターが誕生した。

まさか自分がそんなことになるとは一年前の自分は思いもしていなかったが、普通にヌルッと無職になった。

色々理由はある(後述)が、その理由の一つに関連してこのブログを書いている。これを読んでくれる人がいたらその人に対する弁明と、自分でも自分の状況を忘れてしまいそうになるので、省みるためにとりあえずこうなった経緯を整理してみる。

 

ここからは特に大切ではない部分

遡り出すとキリがないが、中学時代からなんとなく建築士を志していた僕は高校最初のテストで圧倒的クラス最下位を獲得してほぼ初対面の数学の先生、あと化学の先生にブチギレられて建築士を断念した。

逃げで文系に走ると同時に、なんか自分は将来学校の先生になるのだという、夢というよりは決定事項に近いよくわからない感覚に駆られるようになり、そのまま学校教員を志して大学に入学した。

ただ大学に入ってしまうと、煩悩と変なプライドにまみれて「良い会社に入れんじゃね?」と思い出すようになり教員もやめてなんとなくで企業へと進路変更。ただそもそも「良い会社」の定義が自分の中ではっきりしていなかったり、ボランティア活動やサークル、塾講師のアルバイトを優先して行き当たりばったりな生活をしていたので、就活も齧っては反芻してペッペと吐き出す牛さんになっていた。

牛歩牛歩でもなんとか無事就職できそうだというところまで行った頃、教育実習で3週間中学校に行ったところ、なんだかんだあって(後述するかも)「いや、やっぱり先生になろう」と再度心変わり。行き当たりばったりで無計画な割にサクサク進めてしまうよくない部分があるので、その時点で就活やーめた!となった。

でも当然教員採用試験の勉強を一切していないどころか、普通に試験の出願期間を過ぎていたので宙ぶらりんになってしまった。

とは言え、実は採用試験を受験していなくても講師としての採用枠はあるので別にストレートで卒業→講師として働く、ということは可能。講師採用であったところで試験合格を経ての教員との大差はない(多分)ので割とよくあるルートだと思う。そもそも採用試験はそんなに簡単なものでもないし。 そのことを知っていたので、教採未受験で宙ぶらりんになるという選択ができた。

 

ただ結果として、現に今僕は東京で彼女の家にここ1週間ほど寄生して(流石に明日滋賀に帰るけど)彼女がめちゃでかビルで入社式をしている最中、めちゃでかマクドナルドでキーボードをぽちぽちする無職になってしまっている。

 

どっちかと言うとここからが大切な部分

講師としてこの4月から教壇に立つかどうか、と考えた際、「いや、無理やろ」という判断になった。

と言うのは、特段勉強ができるわけでも、スポーツなどに学生時代思い切り打ち込んだわけでもなく、実際にビジネスなどを通じて社会を知ったりした経験もない人間が、このまま数ヶ月で授業が問題なく行える程度まで社会科の勉強をしたところで、誰がそんな大人を指導者にしたいねんと客観的に思った。

教育とそれを取り巻く現状や課題を知らない人たち(とは限らないけど)が教員批判としてよく言う「ガッコウの先生はシャカイを知らないだろ!」といった声を聞くたびに、どの口が言うてんねんという感と同時に「まあそれは割とまじでそう」と頷いてしまう部分がある。

僕は弱い人間なので、学生時代の活動や学びの中でいわゆる「学校」の外としての「社会」に多少なりとも触れ、貴重な経験をしていたとしても、このままいきなり学校に教員として放り込まれたら完全に巻かれてしまうだろうということは容易に想像がつく。

 

書き忘れていたが前提として、自分が現状の学校や教育のありかたを肯定しているかと言えば決してそんなことはなく、むしろ否定的ではある。「教育を変えてやる!」「子どもの未来を豊かに!」など仰々しいものではなく、プラス・マイナスの如何を問わず自分の関心と多少の知見の範囲で自分自身の意思が宿る場所があるなら、そこに入り込むべきだろうという考えの上で、学校教員を再度志すようになった。今思えば就活中もなんだかんだ常に教員としての像があったため教師という目標は根底では貫徹しているようにも感じていたが、こう考えるとそのモチベーションのベクトルは全く逆になっている感じがする。

 

とにかく、簡潔にまとめると、

「学校教員にはなりたいけど今の学校が正しいとは思わない!けど無力でプー太郎の自分はその今の学校の標準レベルにすら到底及ばないから、せめてこの一年間は今一度学び直しをして初期装備と多少の飛び道具くらい身につけてからじゃないと教壇に立つ資格はないよね」という流れでややこしいフリーターが出来上がりました。

思いつきでペラペラ軽口叩いてるせいで、休学・留年・今年から教員として働くなど様々な説が出回っていますが、卒業はしたものの働きはしない ということです(教員だからこそできることでもあるので、企業に就職する人は新卒枠をわざわざ手放すようなことはしない方がいいと思う)。

 

あと忘れてはいけないこととして、こんなフワフワした選択ができたのは、これらのワガママを許容してくれる周囲の人や環境あってのことなので、本当に心の底から感謝しています。自分の近くの人やこの過程で相談した人達が冷笑したり、揶揄するような人間でなくて本当に恵まれていたということは常に自覚しておこうと思う。

 

長くなってしまったが、ここまでが昨年度の経緯とその背景。

 

 

ここからが今年度のこと。

4月からどうするの?と問われると、まだぼんやりし過ぎていて「遊ぶ!フラフラする!テヘヘ、、、!」と誤魔化してきたが、いい加減ちゃんと考えて進めなければいけない。テヘテヘし過ぎて卒論やら大学のテストやらに追われに追われていたので考える余裕がなかったが、学生生活におけるあらゆることに一旦区切りがついたので、いよいよ大海に放り出される時期になってしまった。

 

まず、当然だが科目や教職関係の勉強はする。例によってこれまで微塵も採用試験に向けての勉強をしていないので、流石にいい加減社会科と教職関連のあれこれについて必死こいて勉強しなければいけない。まだ私立なのか公立なのか、都道府県はどこにするのかなど何も決まってないのでそこからですけどね!! 

まあこれらの勉強はどっちかというと「やらなければいけないこと」なので正直あんま乗り気ではない。この辺に関しては教科書内容そのものの理解度よりも伝え方がモノを言うし、それって現場経験に裏打ちされていくものやし。そもそも自分程度が教科書頑張って覚えても僕より頭いい人なんて山ほどいるんだもん!という悲しさもある。でも担当科目の内容を理解していないおじさんが教壇に立つことは当然ヤバすぎるので、ヒーヒー言いながら勉強に励もうと思っている。

 

あとは、教科書には関係ない勉強もする。これは「やりたいこと」

馬鹿者なので比較的イージーな学部・学科でフラフラしていたが、卒論を機に社会学についてあれやこれやと調べたりすると存外面白いもので、4回生の12月にして学習意欲モリモリになってしまった。教育や社会科と社会(学)は近い関係にあるので、教職関連の勉強や社会科の授業を想定した際に授業の一助になるだろうという打算も一部あるが、基本的には単に自分が勉強して面白い・もっと知りたいと感じる純粋な好奇心によるものが大きい。在学中キリスト教に触れる機会が随所であり、宗教になんとなく関心を抱いていたことに加え、やっぱり「社会」を知る上で大前提となる宗教の重要性を感じたので、今は宗教についてやんわり勉強をしている。こんな感じで関心ごとを枝葉のように伸ばしていけたらという感じ。

 

また、やはり頭でっかちなお勉強だけでなく、自分自身の体験の幅は広げていきたい。

在学中から所属する団体での活動は、OBという扱いにはなるが参加していくつもりだ。心身ともにかなりのストレスがかかり、かなりのエネルギーを要するが逃げずに向き合っていきたい。今年に入ってから、キャンプ活動だけでなく能登半島の支援も行っている(しっかりとした手続きは踏んだ上で)ので、そちらも自分の身を使って誰かの役に立てればと思う。5日の夜から能登に向かうので、そこで見たこともここで記せたらと思う。

 

あとは新たな活動として、在学中お世話になった先生の手伝いを始めた。

ありがたいことに学科にはユニークな先生と授業があり、3回生の時にはその先生の授業の一環として24時間ぶっ通しで自転車を漕いだり自転車で京都から敦賀まで行ったりと、インパクトのある体験を通じての学びがあった。

最終課題が未提出であるという不義理を働いておきながら卒業後の面倒見てくださいという要旨のがめつすぎるLINEを2月に送ったところ、わざわざ1対1で会って相談させてもらう機会を設けて頂き、色んなアドバイスと共に是非僕の活動に遊びにおいでよというお誘いもいただけたので、そちらにも参加する。この前はクリスチャンであるその先生の紹介で教会の礼拝とその後のボランティア活動を見学・参加させて頂いた。先生は体験(遊び)を通じた人間形成を専門としており、フィールドとしてゼミ生を中心に農園も経営しているので、今年はそちらにも入らせてもらう。今年からは養蜂や藍染も行うようなので、めちゃくちゃ面白そう。5日の午前中に分蜂作業の手伝いに行ってくる。

 

さらにやりたいこととして、全く知らない環境に飛び込んで何かしらしたいなと考えている。漠然とし過ぎてるけど。

上に挙げたボランティアは全部程度の差こそあれ自分の知っている人や環境の範囲内に甘んじているため、そこから一歩抜け出す必要は感じている。

基本的に自分はかなり小心者でプライド高めだという自覚があるが、その割にポンコツ君であることも同時に自覚している(させられている)ので、一旦まじでノーガードでボコボコにされておかないといけないなと思っている。全く知らない土地で自分の非力さを身をもって知ろうということ。ほんまに俺みたいな人間は海外で出し抜かれたりハプニングに直面して痛い目見てしまえばええねんと我ながら感じることが節々にあるので。

これは自分を不安定な状態にすること前提になっているので、やりたいのかどうかと考えると悩ましいが、必要だなと思っている。

 

 

 

大別するとこんな感じ。具体的な計画は特に決まっていない。

ほんで全部をひっくるめて、最後にこのブログを書くことも「やりたいこと」であり「やらなければいけないこと」の位置付けにある。

 

これを始めた理由は色々あるけど

1つは、自戒のため。自分の行動次第で良くも悪くも大きく振れる一年だからこそ、こんなもん始めたからには実の詰まったものにせえよという脅しです。弱い人間なので単なる内発的モチベだけだと堕落しかねない、なら「テイ」であったとしても、公開形式の日記にすることで外発的なモチベで有言実行を強制させてしまえということ。尻を叩き続けるための役割。(実は数ヶ月前からnoteを始めはしたが、なんか方向性おかしくなっちゃったので心機一転ということもある) これは今の自分に対しての戒めでもあり、将来的にしょうもない大人になってしまった自分が何かのきっかけで見返した時に律してもらえるかなという期待もある。

 

2つ目は、将来的にもしそれなりに上手くいった時に自分と関わった子どもにとってこういうのあればおもろいかなという期待。大人目線のあーだこーだの思い出話よりも、まだギリギリ青い今のことを今の言葉で記録しておいた方が説得力ある気がする。

まあでも今後どうなるか分からないしこれは希望的観測なので、そうなったらおもろいな〜〜くらい。まあこれも前note始める時に同じこと書いたんやけど、普通にこんなん見せたらあかんやろて感じになったからどうなるかはわかりません。

 

あとは、普通になんか楽しそうやから。

音楽であれ絵とかであれ、なんかを作ったり表現することができるようなスキルがあればいいんやけど僕にはそれがないので、しかもコミュニケーションも苦手で言葉ですら上手く伝えることができないので、せめて文章で形を残すということをしてみたいな〜という考え。あとは敬愛するAge Factoryの増子央人とLOSTAGEの五味岳久がこの媒体でブログを書いていて、影響されやすい僕はそれに乗っかっちゃえという感じで安易に始めた。

外向きと内向きが入り交じって変な文体になってるけど、それはそれでという感じ。

 

色々他にもあるけど、全部ここ1、2日で思い立ったものなのであんまり意味はないと思います。

 

そんなこんなで時間があるからこんなことしてみようと思い立ち、威勢よく今朝東京の通勤電車に乗ったところ、スーツ姿のおじさんたちに満員電車でボコボコにされた。みんなスーツの中モジャモジャのパーマで"IKAKU"の文字とレッサーパンダがプリントされた気楽な格好をしているのは自分くらいでなんか恥ずかしくなった。

 

斜に構えて冷笑するタイプだった中高時代から、大学を経てレッサーパンダのIKAKUくらいのファイティングポーズは取れるようになったので、この一年でヘビー級の熊になれるように頑張ります。

 

同期の皆さん、社会人頑張ってください。

ほんで多分これを最後まで読んでくれるような親密さと時間のある人は大学居残り組の皆さんだと思うので、僕と一緒に一年間頑張りましょう。