2026,6,13 サンゲツキー

追記前書きというか言い訳

今までの書いてきたこと全てをAIにぶち込んでテーマを山月記にして出したみたいな文章になった。

追記するまでも無さすぎた。

 

昨日、久しぶりに山月記の授業を受けた。

久しぶりに受けるというのはどういうこと?という感じであるが、これでもセンセイをしているので公開授業やら何やらがあるため、その一環で国語科の授業見学をして擬似的に授業を受けた。公開授業でなくても、無許可で先輩の授業に乗り込んでグループワーク中の生徒にだる絡みをして無視されるということを割と日常的に行なっているが、それでも国語の授業は初めて見に行った。

そこでは山月記を文学研究的に読み解くという授業が行われており、山月記の原作となった中国の人虎伝との比較やそこについての論文3本の読解を通じて中島敦の作家観や当時の日本社会のあり方を探るというかなりめちゃくちゃに面白い内容であった。

 

そこでフォーカスが当てられていたのが、李徴が虎になった理由の違いであった。

簡単にいうと原作の人虎伝では「さだめ」すなわち超越的な力による変身であり、過去に犯した罪に対する天罰というような、外的な大いなるものの力 という点に留まっていたことに対して、山月記ではむしろ李徴自身の内面に原因が認められていた。というか李徴自身が虎への変身を受けて明確な答えはないものの、今までの自分の自己中具合やばかったんちゃうのという点に思いを馳せるという感じ。

まあ李徴はことごとくダサい人間であって、詩歌として大したことないのに、というか挑戦してこなかったのに虎になってもなお自身の妻子よりも自分の詩のことを考え、未練タラタラみたいなもうやめとけってお前みたいな感じである。そして厄介なことに自分でもそこに気づいて「いやこういうところが虎になった理由なんやろな」とダサ自嘲をする。

そしてそのことを的確に言い表したのが「臆病な自尊心と」「尊大な羞恥心」という2フレーズである。一見言葉の組み合わせとして捻れているが、ここは李徴に限らずどちらも本来この組み合わせであるもののように感じる。要は本心の裏返しであり好きな子に意地悪しちゃう的なノリの深刻ver.ただこれは自分でも気づいていないことが多いと思うが。

 

まあ25になって李徴を改めて見るとこちら側にもかなりグサグサくるものはあるんだけれど、そのうえで最近生徒と1対1で色々話す機会が多い中で思ったこととして「『内省的である』ってガチでスタンスとしてずるいよな」という点である。

本筋とは逸れて語ってしまう気がするので留めておくが、結局内省的であることは他者に指摘されたりする前に自分の中で勝手に何度も演習しているだけであり、故に指摘されても「そうなんですよね〜〜〜それはほんまにあかんと思ってて自分でも、、、」とかプライド0の負け顔をしておきながら、その実「自分でもわかってるしそんなん!」という牽制と自己防衛をしてしまっているだけなので、いっちゃんタチが悪い。勝手に自己完結するため必然的に主語が全て自分になり、自分自身を俯瞰しているようでいてとことん主観でジコチューなだけである。そしてそのことを指摘されると「自分って自己中なんや。。。」とズンと沈むものの、さらにそのショックすらも主語が自分でしかないためもう救いようがない。

ということは、そのまんま俺に当てはまるんやけどね!!!!これが生徒相手になるとこっちが偉そうに指摘する側になってしまうので、やっぱり教員という立場は人間をおかしくさせちゃうよねと思う。ほら、また「自分でもまずいなってことは自分でも気づいてます」ということを書いて「まずい連中の中でもまだそのまずさに気づいている自分はマシだ」という中途半端なポジションに着こうとしてる!!

あんまり記憶はないけど、たぶんおれはマラソンで一緒に走ろうと言ってきた人間をことごとく裏切ってきたタイプの小学生だったと思う。

 

結局逸れてしまった。

まあでもこれは言い出したらキリがないし、というか今指摘されたところでその人自身の問題というよりは一種の防衛反応だと思うので簡単になおしなさいとも言えないと思う。自分自身に対しても。

 

追い逸れしてしまった。

なんの話かわからんくなったが、山月記の李徴をみて、こいつガチだっせえ〜〜〜と思うと同時にガチ俺も〜〜〜〜と思ってしまった。あかんまたダサ自嘲して虎になってまう。

俺も〜〜〜というよりはガチ人間〜〜〜〜と思った。論文では、虎になってしまった姿を自ら人前に晒すという行為を選択した李徴の様子を切り取り、獣的であればあるほど、人間的になっていく ということが要するに逆説的に言われていて、これはかなり大事なこと言ってるんちゃうか?と思った。

結局自分のこれまでのなんやかんやを抽象化したらぜんぶ同じこと言ってるんやけど、この虎になった自分を認めてその姿で人前に出るかどうかで俺は出ろよと思うということなんやと思う。どういうこと? 

虎にならないことは無理。もう無理無理。人間って基本ダサいから!でもそこで認めて人前に出るかどうか という点で真に「内省的」であるかどうかが問われんちゃうの?と感じた。どういうこと?

 

要するに、なんかやれよという話。

今年はなんか書く系でこのブログじゃなくてどこかに出したりしてみようと思った。世間に出して才能のなさを実感する過程というものは、人間であるために重要である。そしてこれが案外落ち込まないというか痛快なものである。めっちゃ好きな子に思いっきり告って思いっきり振られる奴、人間すぎるからな。

ということで、みんなvlogもしよな!!!

 

2026,5,30 vlogerのススメ

ときに、皆さんは「vlog」を撮影したことがあるか。俺はある。

そして、皆さんはyoutubeに動画を投稿したことがあるか。俺はある。

 

先日投稿したブログにおいてもチラッとvlogをはじめた的な趣旨のことは書いたのだけど、vlogをはじめた。

vlogに付随する動詞が「始める」なのは謎の違和感があるが、vlogを始めたとしかいいようがないのでvlogを始めた。

 

vlogといっても部屋を綺麗に飾ったりどこかに出かけたり的な動画をいい感じに継ぎ合わせてピッピピロリロリロリ〜のBGMをつける的なものではなく、最近購入した蒸籠に冷凍そばをそのままぶち込んでその名の通りのせいろそばを蒸し時間までフル尺で定点から映しながら後付けで「最近通勤中にカタツムリ見つけてマジ嬉しかったんすよ」的な話の録音を強引に突っ込んでるだけのものなのでvlogとは言い難いものであるが、他に言いようがないのでvlogとしている。

きっかけは職場で仲の良い先輩の口癖が一時「vlogやなそれは」になったことがあり、そのノリでvlogをはじめた。その先輩もちゃんと始めた。ちなみに最近の先輩の口癖は「逆にね!!!!」「順・スチュワート・ミルってこと???」「順・メイナード・ケインズってこと???」の3択であり、全ての話を逆接ないし逆説か順接かという点でしか見ていない。

まだ「vlogやなそれは」よりは会話に即しているので助かってはいる。

 

というノリで始めたものだけれど、これがすごく楽しい。みんなvlogしよな、という感じ。

無理矢理にでも2日に1本投稿するという制約を設けているので、内容やクオリティは千差万別であるが、そもそもクオリティとか内容とかはどうでも良い。なぜなら「vlog」であるから。

その日その時に感じたことや考えていたことを、ただ台本も何も用意せず、ただただぐだぐだ話して、適当にどこかで撮った動画と無理矢理合わせて、AIにすべて文字起こししてもらったらそれを雑すぎるサムネイルと一緒に投稿予約するだけ。ここまで録音合わせても30分あれば余裕で1本の動画が投稿できる。

 

わかるわかる。そんなん「vlog」「youtubeに投稿」とか言ったらハードル高いよな。それは現代社会そのものが悪いわ。俺やったらそんな思いさせへんから〜笑笑

vlogを投稿することへの懸念として以下のことが考えられる。

・そんなん投稿して何になるん?

・自分の生活とか話をわざわざそこで聞いてもらわんくていいし

・そんなん時間の無駄

・恥ずかしい

・承認欲求?笑

・話すことない

その他5万個くらいやらない理由は挙げられる

 

やかましいわ、そんなん全部わかってるわ、あほ!!!!!!!

全て200%で今の自分自身がそれを甘受してるわ、ざこ!!!!!!!

そして全てをまとめて「だからこそ、やる。やれ!」と言いたい。

 

ただしここで重要なポイントは一つ、いかに「しょーもない」ものにできるか、という点に尽きると言えると考えている。

翌日には忘れているようなしょーもないことに目を向けること、そしてそこについて言葉にしてみること、動画という形で残してみること しょーもなくてもいいから続けること これによって普通にそもそもしょーもない日々が、若干意味を持たせられる。

別に意味を求めているわけではないしそんなことをしなくても十分意味がある生活を送っているよと思うかもしれない、てか流石に俺でも毎日にそこそこ意味あるわ、感情労働の代表的な職についてんねやから。

 

ただやっぱり、シンプルに「残す」ということが一番わかりやすいメリットというか意義であるかなとは思う。

先日それこそvlogのBGM(バックグラウンドムービー)用に本棚を整理する動画を長回ししていたら、大学四年の就活期〜教育実習終了から初夏にかけて書いていた日記が出てきた。

それはちょうど就職をせず教員になろうと思い直した時期であり、所属していたボランティア団体の現役生としての最後の夏までの時期でもあったので個人的にはそれなりに意味のある期間の日記であった。

はずなのに、全然忘れていたことばかりであった。

もちろん出来事としては覚えているが、そのときに考えていたことは全然覚えていなかった。今の自分の在り方にかなり直接的な影響を与えたきっかけの時期であるのに。

一方で、一方ででもないけど、今もなんとなくというかよくわかなくなってきた時などに立ち返る座右の銘というほどのものでもないがなんとなくの指針になっているであろう、ラインホールド・ニーバーの祈りの一節が書いてあり、日記史上でもまあまあトップクラスに恥ずかしい内容やなと思いつつもこん時から大事にしてたんや〜ということを感じた。

特に信仰が篤いなどではないが、なんやかんやの経験上、賛美歌や聖書、祈りの言葉などに触れる機会がしばしばあり、個人的にも割と好き とか言ったらなんか舐めんなよという感じではあるけど  であり、気になったのはどこかにメモったりしている。それが意外と、初めて出会ったものやと思ってたら随分前にも同じものをメモっていたりして、おうおうとなることがそれ以外にもある。

 

何が言いたいねんという感じやけど、やっぱり忘れるわなあ人間ということを感じる。

だからと言って日記を書くこともなかなか労力がかかるし、なんか構えてしまう。こんな感じでブログを書くにも、その日のことをつらつらと書いていても何の面白味もなくなるというか、やっぱり方向性が何であれ一定のフィルターをかけてしまう。

それこそ「ブログ書くための文章」「書くために書いてる」現象に陥りやすい。まじブログ書いてる奴の文章ってやかましすぎるから。

 

その点、vlog。すべてをクリアできる。

個人的には話を売りにする職にありながら、ボソボソ喋りすぎるというデカすぎる欠点がある(授業中はありえへんほど声でかいと言われる。頑張ってるから。)し、そもそも普通に喋りが得意であればこんな文章タラタラ書かんで済んでるわなという見当がつく通り、そもそも喋りが圧倒的に苦手なので、文章ではなく言葉にするという点がかなり筋トレになる。てか逆に喋りが下手すぎるという自認があるおかげで、逆に肩肘張らずに取り組めてよい。

こんな奴が教師してて大丈夫かと思うかもしれないが、先述の通り結構頑張っているのでなんとかなっている。

 

あとは個人的に最も大事なのが、いかに恥部を堂々と晒せるか というところに意味がある。

これに関しては別にこのブログだってそうだし、バンドだってある意味そうなのかもしれない。というかある意味というかかなりど真ん中でそこの意味がある。

普通に僕と関わっている人ならわかると思うが、普段の自分はかなり恥部隠しがちである。どれくらい恥部隠しがちかというと、20前後まで友人と銭湯や宿の大浴場に行くことを頑なに拒んでいたくらい隠しがち。まあ、シンプルに「スカした奴」でまとめられる。

一方で厄介なのが、このスカした奴のことを自分自身がめちゃくちゃキライであるということであり、恥部を堂々と晒せる人間への憧れを強く抱いてしまっているということである。

 

自分にないものに対して憧れを抱くというのはごく自然な現象であるとおもうが、「隠す」こと自体がコンプレックスになってしまうと、わけがわからない。コンプレックスだから隠すというのが順・スチュワート・ミル(順当)であるはずのところ、「隠す」ことがコンプレックスなので逆に「晒す」という方向になるが「晒す」をすれば「隠す」というコンプレックスのジャン=ギャック=ルソー(順スチュワートミルに対する、最近の僕のカウンターフレーズ)を行ってしまうから、わけわからんくなる。

結果的に、普段は隠してしまうのに常に恥部を晒せる場所を探し求めるシンプルな変態と化し、ブログやユーチューブ、そして職場においても生徒に対して彼女にビンタされた話をしてドン引きをさせるというバーサーカーモードに突入している。

 

元はと言えば、あるがままであれない自分に対する訓練の一種としての恥部を晒す行為が、いつのまにかそれ自体に快感を覚えてしまったので拗れちゃった。

 

でも、中途半端に自我があるおかげでブログもインスタの「親しい友達」機能に留めてしまっているところ、一番ダサくて可愛げがあるよね。

 

ともあれ、全然恥ずかしい。承認欲求とかじゃなくて、いやそこもあるんやろけど普通に恥ずかしい。

でも、時々同級生とかにブログ恥ずかしないんとか言われるけど、嘘流石に言われたことはないけどケッケッケと思ってる人もいるだろうとは思うので盛って言ってみたけど、声を大にして言いたい

 

そんなもん全部わかってやっとんじゃ、ボケ!!!やかましわ、タコ!!!!さすがにSNSで水着姿投稿してるお前のほうが恥ずかしいわ、ザコ!!!!!!!と。

 

こんな感じで、自らの矮小さに堂々と向き合えるようになるので、それがいいかどうかは人次第として、vlogっちゅーのはええツールです。

 

みんな、やろな。俺はやる。

ここまで言ったので、チャンネルのリンク載せておく。

youtu.be

2026,4,25 本屋再襲撃

イヤホンを落とした。

 

場所は分かっていて、15分くらい前に本を買った駅前の本屋のレジカウンターの上にある、はず。

先生なので、レジではイヤホンを外してちゃんとお礼を言う。当然と言えば当然だけれども、先生なのでそれももはや当然じゃないんだなあという学生の姿を日々見ているので、これは「ちゃんと」と言ってもいい。一方で先生なのに、かなり忘れっぽいというか注意力が散漫なせいで、外すだけ外してそこからどうしたかは一切わからない。

 

で、今はその本屋から歩いて10秒というか店の前のワゴンをどけたら5秒で行けるカフェにいる。時々出かける前に寄るところというか、何も考えず出てきてしまってあまりにも計画が立っていないので一旦時間稼ぎをする際によく使っているカフェにいる。

古今東西、そこらじゅうのカフェでマルチやうさんくさい商談をはじめ、不穏な会話が交わされている。その中でもこのカフェで聞こえてくる会話はかなり上位に入ってくる胡散臭さを誇っている。原因は多分店の質とかではなく、客も席も少ないうえ静かなので会話が耳に入ってきやすいだけなんだと思う。と考えると、自分が思っている以上に日常にこういう会話が交わされているんやなということに気づいて、怖えねと思う。

 

そういう怖え話がめちゃくちゃ気になってしまうのでイヤホンをしようと思ったところ、ケースの中が空っぽで、落としたというか置いてきてしまったことに気づいた。

 

で、取りに戻るかどうか、結構悩んでいる。

 

理由はなんやかんやある。

 

一つ目は、ちょうど新しいイヤホンを欲しいと思っていたので、多分いい機会であるということ。

 

二つ目は、なんか気ぃ悪いこと!

本を買おうと思って電子決済ができるか聞いたら、パワハラ中の宮崎駿似の店員に「無理だね。カムバックするかい?」と言われ、本屋でこんな挑発的な老店員いるんやと驚いた。トイレに行きたい以外の感情を本屋で喚起されたのは初めてでした。てかカムバックするて何をすることを指してるんだ??

 

そこですぐイヤホンを取り出してカムバックしてやったらよかったものの、782円を全部100円玉と10円玉で支払って気持ち雑に「あらしたー」と言って出るという卑しい仕返ししかできなかったおかげで、イヤホンをそのまま忘れてしまった。

という経緯から、パワ崎ハラお似のアイツのもとへイヤホンのためにカムバックするのはちょっと癪なので、イヤホンをそのまま放置して処理に困らせてやろうかという気概である。

 

三つ目は、ほんまにダサいと言うか小賢しいと言うかやらしいと言うかというところだけれど、こうしてその出来事をネタにしてこういうことを書けるやんと感じてしまったこと。

 

ちょうどここまで来る道中にいろいろと考えていた。

というのも、その経緯はわざわざ書くほどのものでもないのであれだが、ここ最近結構気持ち的にノラないことが多く、無気力状態に陥ってしまっていた。

で、これもわざわざ書くほどのことでもないのだが、1ヶ月半ほど前に職場の先輩とのノリの中でvlogチャンネルを始めた。vlogというかただただ自分一人で思想や考えたことを垂れ流すだけのもの(このブログを言葉にしただけ)なのだが、ちょうどそれを始めてすぐくらいにそのしんどい期が来ていたので、4本ほどあげてから1ヶ月以上放置してしまっていた。

 

別にそこまで思い入れのあるものでもないのだけれど、先輩とその話をしていたら「しんどい時こそ記録しとくべきもんやろが!!わかってないなお前は」と言われ、ぐうの音も出なかった。

で、ここ1週間くらいで元気になってきたのでそれも再開しようかなと考えている最中である。

 

ということはどうでもいいのだけれど、結構この「しんどい時にそれができるかどうか」は重要と言うか、ある種の才能の核心的なものなんじゃないかなと思う。

しんどい時にどうしようもなくしたくなるものか、しんどいからやる気が出なくなるものなのか、というところがその対象に対する適性を示していると言えるのではないか、ということ。そりゃそうだ、という話なのだけど、これを踏まえて「やっぱり結構自分てドラムが性に合ってるんやな」と思うと同時に、結局「この状況を書き残したい!」という方向にエネルギーが向かなかったことへの絶望感というか切なさのようなものを感じていた。

 

本当に思い上がるなよというのは重々承知のうえで、割と「何かを書く」ということは自分の一生の趣味になるんだろうな、というかライフワークにできたらいいな、というか「誰かから求められて書けるようになれたら理想やな」という感覚はあって、もちろんそうなると結構話が変わってくることはわかっているけど、そういう望み みたいなものはある。

が、結局どこまでその「書く」という行為に対して長く付き合っていけるか、みたいなことを考えた際に、しんどい時に求める行為ではなかった、ということは結構大きい。

 

仕事やその他で小忙しい時や、イヤホンを失くすなどの小さなショックがあった時に昇華というか逃避する手段であって、酸いも甘いもを噛み分けるパートナーにはなり得ないのかなということである。

ビビリかつコミュニケーションの障壁が高いおかげで、いや一途なおかげで実際に経験したことはないが、いわゆるワンナイトや都合のいい関係というのはこういう感覚なんじゃなかろうか、と思う。割とこれは多分そう。俺にとって書くということは、ただのセフレ止まりだったのね。。。。という寂しさを感じる。正確には自分が書くということを都合よく使ってしまっているので、よりタチの悪い方である。🚬🚬

 

つまり今すぐにイヤホンを取りに戻らずPCを開いて一人したり顔でこういうことを書いているのは、上述のあれこれを考えながら本屋に立ち寄り、ちょうどワンナイトするのにいいくらいのハプニングが起きたので、これ見よがしにそのハプニングを都合よく使ってしまっているということである。まったく。。ダメ人間、俺。。。。。

 

 

消費社会の虚しさを語るという授業を作っている最中の社会科教員として、普通にまだ全然使えるイヤホンをこんなことでダメにしてしまうのはさすがにダメなので、取りに戻ろうと思います。

 

本屋へカムバック!!!本屋再襲撃!!!!!

2026,1,31 be a 自分語リスト

守山市に引っ越してから一年が経ちました。

そしてもうすぐ、教員としての一年目も終わろうとしています。3学期は実質ノーカンです。

一方で、たぶん僕自身はあまり変わることなく、時々書くブログの一行目も例によって要するに「こんなに時間がたってしまいました」ということを繰り返すのみであり、そしてその後の文章も①時間が経つのは早いこと ②そこに取り残されつつも、ちょっとずつ感じ方に変化もあるということを嘆いたり懐かしんだりすること ③なんか開き直ること という構成を、頻繁に打ち消したりやかましい婉曲をしたり卑屈になったり漫画に例えたりしながら、かなりの蛇足で長い一文に詰め込んだりしています。

そしてそれら全てを、自分でもメタ認知しています、というスタンスで流行りの冷笑をちょっと入れつつ書くわけですが、それすらもこうして書いてしまうということも多分何回も書いていて、要するに全部抽象化したら大体毎回同じことをちょっと違うエピソードトークを手掛かりに書いている。

そしてその「メタ認知」をさらに「メタ認知」して、メタメタ認知して、さらにメタメタメタメタ認知して、これを42回繰り返したら月にまでいくあれです。このメタ認知の塔を駆け上がりながら、最終的には「結局こうやって客観してますよ的な生活の中で、圧倒的な自己を持ってのめり込んでしまう何か が生活には必要で、でもそれってなかなか手に入らなくて、こういう説明のつかない非合理的な何か が人間の素晴らしさなのだ!」という点に帰着するのが、いつものやつです。これをインスタントに手に入れたくなってしまって、「ひゃくえむ」をみたり音楽を聴いたりしてしまうのも、いつものやつです。

 

ここをぐるぐるぐるぐるしながら、あっちゅうまに一年が経ち、職場の先輩にも「結局毎回テーマは変わっても抽象化したら全部同じこと言ってもうてるから、もう飽きるわ!!」とファミレスで言われつつ、そこで苦い顔をして雑魚ポジションに甘んじてしまう自分はさすがに良くないなと思っているので、年始に(というか1月最終週に)書き出した「2026年やりたいこと」の中に「自分を卑下しない」「周りのひとと明るく話す」という項目をかなり高めな優先度で書いた。これはやりたいことなのか?とは思いながらですが。

 

オイオイ1000文字使って、結局新しいことは「卑下しない」「明るく話す」だけかい、という感じですが、ここまではどうでもいい話です。序文。まだあと、「破」と「急」がある。「本」と「結」ではなく。

 

 

ここからが「破」です。

いや〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜教員なってよかったよ俺ぁ!!まじで!!!

そして、こんなブログでも書いててよかったよ俺ぁ!!!ガチで!!!!!!

 

先日、高校三年生の授業の最終回で、恥ずかしながらこのブログを生徒に見せた。

詳細は省くが、社会課題をワークショップなどを通じて実感する、というタイプの、うちの学校特有の科目を今年一年担当していた。

基本的には内容やフォーマットが用意されていたが、時々オリジナル授業の回があり、自認「仲間内に一人いる、新しいゲーム考えるのが上手いやつ」であった僕は、まあまあなワークショップを持って行っていた。

が、どことなく「ワークショップに頼るのって、めっちゃダサくね!!!!」という感覚はあり、実際に授業のテーマや視点がしょうもなくても、ワークショップさえ楽しいものであれば授業としてはできた気になってしまうのが、ワークショップの怖いところであり、ダサいところであった。

それで、一度キャンプの時の話をしようと思い、中庭の芝生で座っての授業にチャレンジしたら、高校生は意外と芝生に座ることに抵抗があるというそもそもの壁にぶち当たり、ただのピクニックになってしまった。たしかに、芝生に座ってみたらめちゃくちゃカエルとかもいた。かなりの田舎であることを忘れていた。

 

それはさておき、その科目の最後の授業はオリジナル授業である という通例があり、何にしようかと2週間というか数ヶ月前から考えていてもなかなか良いのが思いつかず、前日にへっぴり越しで図書室の蔵書検索で「ワークショップ」と調べるという教育実習生でも許されないであろう愚行に走っていたところ、たまたま先述の先輩に出会し「イヤーーーーナイナイナイナイ!!!!ダサいダサい!!学校ぶち壊しにきたんちゃうの!!」と煽られ、半ば売り言葉に買い言葉で、1年間ワークショップをやり続けてきた科目において2コマぶっ通しでただ「俺の話をする」というオリジナル授業が完成してしまった。

 

そうなると、なんか何を言うかとかも用意するのダサくね!!となってしまい、とりあえず島のことについて書いた自分のブログと、島の動画と、あとは黒沢清のCUREから、間宮が「本部長の藤原、お前は誰だ?」と聞くシーンの切り抜きだけを準備して、あとはなんか焚き火を再現しようとして暖色のライトだけ持って授業を行った。CUREのこのシーン、これ以上の真理をつくものはないので、みんなみてください。

 

結局かなりグダリながら、部屋を真っ暗にして円になり、真ん中にライトだけをおいて僕のブログを全員で読み、その後僕の紆余曲折について話をするという、かなりパワープレーな授業をしてしまった。

 

これを読んだらかなりキツイなと思うかもしれないが、まだ俺の得意分野?が文章を書くことで、担当楽器がドラムでよかった。もしギターを弾けてしまっていたら、間違いなく2時間の授業すべて、尾崎を全力で弾き語る神回になっていたところだった。

 

ただ、自分の挫折や紆余曲折などについて赤裸々に話はするものの、決して自嘲はしないようにしよう、ということだけは決めていた。

おかげで、めちゃくちゃ堂々と暗い部屋で自分語りをしてスベり続ける24歳新任教師になった。

幼馴染の母にして、小学校の時の様子を「めちゃくちゃ突かれたくないところを、的確に狙ってグリグリナイフで刺してくる」と言わしめるほど陰湿なやつ認定されてしまっていたバックボーンを活かし、陰湿さが一程度抜けてからも「めちゃくちゃキモいこと、めちゃくちゃ面白くないことをクリティカルに言える」という特技が残り、そこに快感すら覚えてしまうようになった。とはいえ、その許容範囲を見誤ってしまうこともあり、公民科の授業のオリエンテーションで「僕去年無職やったんですけどね」と言って予想外に生徒にドン引きされたり、経済の授業で60円しか入っていなかった昨年の自分の口座を見せてドン引きされたりという失敗も経験し、今回もその一環としてまあまあちゃんとスベッたという実感があった。

 

さすがに他の授業であれば取り返しのつくところ、最後の授業となるとまあまあやってもうた!!という実感もありつつ、一方で変な清々しさを感じながら授業を終えた。

最後の課題は任意提出のもので、内容は「なんでも良いのであなたの自分語りをしてください」というものにしてしたところ、ほとんどの生徒が提出することはなかった。

 

そのまま提出期限も過ぎ、一通り成績をつけ終わった昨晩、一人の生徒が「提出期限を過ぎてしまいましたが、感想だけでも読んでください。採点していただけないのは承知しています」と書いて感想を提出してきた。

そこには、1年間ありがとうございました、ということと授業全体への感想、時々授業中に他のこともしてしまったという懺悔、最後の授業とブログの文章に対しての感想、そしてまだ未熟ですが先生のおかげで少し成長できたと思います ということが丁寧に書かれていた。

それを自宅のトイレで読んでかなり号泣し、帰宅中の彼女に何気なく報告しようとして号泣し、今日かなりウルウルしながら結構やかましめの返事を書いた。一点、「君も何か書いて残しておくことをお勧めしておきます!僕みたいに黒歴史を晒すことで話のネタか飲み会の笑い話にはなるかもしれません笑」というめちゃくちゃ中途半端なダサいことを書いてしまったことは送ってからかなり後悔した。

 

教員という立場は、他の職業よりも簡単に権威や承認が得られてしまう者であり、もちろんその真逆になるパターンもあるのだが、なんであれ正直なリアクションをダイレクトに、即時に得られる職業である。だからこそ、権威があると勘違いする大人や承認欲求が暴走してしまっている大人が生まれやすい土壌になってしまっているし、実際そういう人は無数にいて、そうはなりたくないと節々で戒めのように感じるところであるが、結局自分もどこまで行っても承認欲求が根本にあるということは否定しようがない。てか、このブログとかもよっぽど承認欲求強めな人間しかやらんやろうと思ってしまうし。

なので、授業で自分の黒歴史を晒すことも、一種のコンプレックスから承認への昇華の一環なのかもしれないし、ましてや生徒からリアクションをもらえて嬉しく思うことも、承認欲求が満たされることによる喜びなのかもしれない。

 

と客観できています感を出すようなことを、感想をくれた生徒はしないんだろうな、という点について心から尊敬するとともに、そういう奴と携われるこの仕事は、ただの承認欲求ではない喜びがあるんやろうなぁと思った。

自分自身も、単純に、純粋にとてつもなく嬉しく、やりがいになった。

 

承認欲求であれなんであれ、生徒に1オングストロームでも何かしらの感情の動きや見え方が与えられるなら、与えるというか少しでも琴線を「バイーン」とできるなら、よっぽど卑下してうにうにするよりはいいんじゃなかろうか という開き直りでもある。

 

 

多分今後このことはずっとやりがいになるんだろうと思い、今年やりたいことリスト上位にあった「毎日日記書く」に準じてこのことも書こうと思っていたのに普通に寝てしまったので、そのリストの一行下に書いた「ブログもうちょっと書く」と合わせて達成しようと思い、こういう形で残しておきました。

 

 

ここからが「急」

これだからやめられん!!!!!!終わり!!!!!!!!!!!

 

2025,11,30 あられもない

数年意識の外にあったRADWIMPSが、新たなアルバムと、トリビュートアルバムを出していた。

RADは音楽性が変わった、であるとか、最近の曲はなんか、、みたいなのは割といろいろなとこで耳にしていたし、これはRADに限らず何においてもありきたりもありきたりな話ではあるが、そういうことをわざわざ言うかね、という自分の感覚はさておき、そういう感想を抱くこともないくらい、新たな曲を聴いたりすることもなかった。ので、文字通り完全に意識の外にあった。そして多分これも割とRADWIMPSを好んでいた人にとってはおそらく、ありきたりな感覚であるように思う。

そしてありきたりにも、今回のアルバムには結構食らった。

ただ、アルバム自体の所感などは誰のどの口で言うてんねん、それもわざわざ言うかね、という感覚を持ち合わせてしまっているので、そこについては触れないけれど。でもこういうことはわざわざ言ってしまうの、多分いちばん良くないよねとは思います。

 

バイザウェイ。

今思い出したが、高校の時ペアワークが基本のコミュニケーション英語で圧倒的に人と話すのが苦手な自分は、英会話的なノリになったら毎回ボキャブラリーの少なさとコミュ力のなさを誤魔化すために、とりあえず唐突に「バイザウェイ」と言って全然関係のない話を始めるという中途半端なボケ一本で場を凌いでいた。

ヤヤウケ、もしくは苦笑いと動揺を誘い、その生暖かい空気で稼ぐ10秒が、どれだけ自分にとって命をつなぐものであったか。湘北vs山王であれば、この間にゲーム展開が2転3転4転している。もちろん、その苦し紛れの10秒が終われば、トークにおいて嘘のようにボロ負けをしていた。

 

これくらいの無理やり度と、これくらい中身のない話を「バイザウェイ」一言で繰り出せるから、ありがたい接続詞です。397👍

 

バイザウェイ。

何より強く感じたのが、これだけはわざわざ言うが、なんせMrs.GREENAPPLEの狭心症、俺ぁ悔しいよ!!!!!!悔しい!!!!!!!!

ミセスのことは好きも嫌いもない(これ言うとめちゃくちゃダサいので言わないが、本当は少し好きじゃない)のだが、もうあかんて!と思った。これも陳腐すぎるのは重々承知ではあるけれど、これでいいのか!なあシーンよ!!掌で踊ってていいのか!!!民よ!!!!とひしひしと感じさせられた。

 

そしてそこから至った結論の一つが、もっとあられもなくあれ!!ということだ。

 

「AIに仕事が取って代わられる」とこれまた言われ尽くされたこの時代、「AIに取って代わられない仕事代表」ツラをしている教員という仕事をしている身からして、全然AIに取って代わられます。と日々感じさせられている。

おおよそ、感情面であるとか、0→1のモチベーションを生み出すであるとか、大雑把にいえば「人間味」という点が「AIにはできんだろう」と教師が胡座をかいている点であるのだけれど、そのような際に想定されている「人間味」というのは、恐ろしいことにAIにも十分実感させ得るものであってしまう。むしろ、それなりに科目の専門性という側面が強い高校で勤務しているともなれば、案外ドライで自己本位な教員が多い中、AIの方がより「感情的」で「人間らしさ」をもっていると言っても過言ではない場面だって往々にしてある。もちろん、これらは「感情的」「人間らしさ」を計算して演出したものであるが、その演出を喝破するほど案外洞察力は鋭くなくて、あるいは現代の高校生は案外無関心であるとも言えるかもしれない。

とにかく、少なくとも出来杉くんという人間よりドラえもんというロボットの方が感情表現豊かで人間らしいという例もあることを昔から知っているはずであるにもかかわらず、「血の通ったやりとり」という土俵で張り合うのはもうやめましょうよ、会議の時間が勿体無い!!と思う。そして現に、「AIほんまにポジティブな声かけしてくれるから、割とちゃんと嬉しいしやる気出るねんな」と高校生は言うし、(これはかなり穿った味方なのかもしれないけれど)狂気とでもその裏にある切なさと、、、みたいなアンビバレンスな感情、これぞ人間の叫び、、みたいな表現を、ガチガチに音楽理論を操り見事にドカ売れしているバンドが、さも「リアルで肉薄する感情」を宿しているような表現を、テクニックの一環として卒なくできてしまっているのではないかと思う。

 

では何が人間らしさで、どこを感情労働者のフィールドにしていくべきなのだろう、と、それなりにちゃんと危機感を持って考えると、あられもなさ であるのではないかと!!僕は!!思うわけですよ!!!

あられ‐も‐な・い

  1. 〘 形容詞口語形活用 〙

    [ 文語形 ]あられもな・し 〘 形容詞ク活用 〙 ( 「あられぬ」の「ぬ」に代わり、助詞「も」、形容詞「ない」が付いて一語化したもの ) あり得べくもない、とんでもないの意。

  2.  あるはずもない。ありえない。予想もできない。とんでもない。

    1. [初出の実例]「其間用に立ざる雑念、あられも無こと様々心にのり」(出典:箚録(1706))

  3.  そうあってはならない。ふさわしくない。似合わしくない。特に、女性の態度やふるまいが、女性として適当でない場合などに多く用いる。

コトバンクより

 

あるはずもなくあれと!!

 

これは、「予想だにしない発想」や「ゼロイチを生み出すクリエイティブ思考」というポジポジのことではなく(無論、それも大事やとは思いますが、それって強者の理論じゃーん となるので)、「その人らしさ」を追求していき、問答を重ねていった結果、ふとこぼれ出る「その人らしくなさ」すなわち「その人にしてはあるはずもない」という意味でのあられもない姿 が、人間らしさ そのものであるのではないかと思う。

もっと単純に言えば、およそそれらはコンプレックスであり逆鱗であり、地雷と言われる部分と重なるのだと思う。

こうした点に触れた時に、はじめて「え、なんでそんな感情的になって、、この人らしくない、、」とか「その人の今までの言動とはむしろ矛盾しているのでは?」という、エラー的な反応があって、多分そのエラーはAIには再現できない部分なのではないかと、これは教師としてそれなりの数のエラーが生じやすい人間とエラーが発生しうる深度の話をしている身からして、感じることである。

そして大概、おそらく各人の価値観の底は何かしらのコンプレックスやトラウマがあるので、少なくとも自分は大いにそうであるので、こうしたコンプレックスやトラウマを探り当ててからこそその人固有の価値観としての「その人らしさ」が感知されるのであって、人間らしさは足し算ではなく因数分解の作業として捉えられるべきなのではないかと、僕はそう思うわけです。

そして、教員はその原初のコンプレックスや欲求を無自覚的に覆っている玉ねぎの皮を剥いて剥いて、お前をお前たらしめてるのはこれでは???を気付かせることに注力していく方にいったらいいんじゃないと思う。

 

当然、ある種の禁足地に踏み込めと言っているようなものなので相当の責任というか覚悟は必要なものであるのだけれど、それくらい向き合いましょうや先生。と思うのである。ほんま!客が10代だからと言って権威を持ったと勘違いして自己顕示と承認欲求満たしてんちゃうぞ、逆であれ逆で!!自己開示とコンプレックスをひけらかしてあられもなくあれない人間が、「人間味」を語るなや!!と、一年目で権威を持てず自己顕示もできないからこそ野次を飛ばせているだけなのだろうな、とは思いつつも、その程度の恥くらい我慢して晒せる大人であれたらいいなと感じている。

そういう存在ってかっけえねと思うし、あられもなさを堂々を昇華してバンドに還元している人達は本当に、結構まじでいつまでも一番かっけえねと思う存在である。

 

バイザウェイ。

最近「ひゃくえむ」を見た。もれなく自分のドツボであり、恥ずかしながら一丁前にコンプレックスまで刺激されてしまった。友人のバンドのライブをみてもボロボロ泣いてしまうようになった。

こうした話を、職場でお世話になっている先輩と普段からしていたら、昨日ついに「お前、コンプレックスを刺激されたり、打ちのめされたりすることと、それをこえて感動する、みたいなのに快感覚えてしまってるよな。自慰行為と変わらんでそれ。内省的であることも必要やけど、内省自体が目的になってたら、結局客観してるようで究極的に自分視点でしかないから」と言われ、いやここまでは言われていないが、翻訳するとつまりこういうことを指摘され、刺激どころか貫かれて打ちひしがれた。

まさしくその通りであって、でも結局こうしてコンプレックスを正当化し、若干冗談のニュアンスを交えながら開きなおってしまっている点が、もうどうしようもないなとも思うわけである。

 

ただ、その出所はわからずとも、というか出所がわからないほど、涙がブワッとあふれそうになるとき、その予兆として現れる喉の締め付けられるような痛みは、おそらく最も顕著に現れるあられもなさであり、そうしたあられもなさと痛さを感じる度に、割とまだ生きていてよかったのかもしれないと思う。

 

久しぶりに会う友人と酒をのみ、あられもない話をして、酒のせいかあられもない何かのせいか喉がジンジンとしたこういう日は、たぶん結構今後の活力になったりするのだと思いました。

2025,11,6 アフレコ犬

一人暮らしを始めて気づいたことだが、おそらく自分はそれなりに重めの犬アレルギーだった。

今でも月1くらいのペースで実家に帰る、というか湖一個越えればすぐに実家なので、あまり実家実家していなくて「実家」とか「地元」とか言うのも変な感じはするけど、実家としか言いようが無いから実家に帰ると言います、実家に帰るのだけれど、その度に全身と喉鼻が痒くなってまあまあ辛い思いをしている。普通に体調不良という可能性も無きにしもあらず、というタイミングでいつも帰っているので未だ普通に体調不良という可能性を信じてもいるけど、さすがにアレルギーと認めざるを得ないくらいの喉の痒さを感じています。

関係ないけど、最近インスタのおすすめ欄に犬に喋らせるタイプの飼い主のリール動画が表示されるようになってきて非常に腹立たしい。犬はめちゃくちゃ可愛いし、おすすめ欄に出てくるくらいには犬の動画を自分から探して見にいくということを普段からしているが、犬にセリフをつけるだけならまだしも、音声をあてて喋らせてるのは、ほんまに何?????

以前、ラランドのラジオのコーナー「私の周りの終わり人(おわりんちゅ)」にて、「ティーカッププードルを生み出した人類」というお便りがあり、あまりのクリティカルさに痺れた。ティーカッププードルを生み出すにとどまらず、おのれの都合の良い解釈で声をつけて全世界に公開する人類。。。バイトテロ・寿司ペロ・下着ユニバ・アフレコ飼い主 全部一緒や!!恥を知れ恥を!!!!!!

 

ともあれ、あっという間に11月にもなりまして。

久しぶりにふっと力が抜けるタイミングに一瞬入った、というか、めちゃくちゃ教材研究して変な授業した結果ドンずべることにも一旦飽きて、既に用意されている授業の資料を流用しながら6割くらいの安パイの授業を挟むやり方を知ったので、こうして残り4割の力をドンドンずべブログにあてています。ドンずべという実感はありつつ、ブログに関しては稀に良いね!と言ってくれる声があるので、ドンずべ授業に関してもそういう存在が数名はいてくれているだろう という淡い希望は抱いている。

 

そんな感じで、良くも悪くもちょうど良さに触れつつ、気温や空気感その他肌に触れるあらゆるものも割とちょうど良い頃にもうなったのか、と原付での通勤中に実感している。

なんか毎度毎度思い出話のようになるが、否応なくこれくらいの時期になるといろいろフラッシュバックしやすくなる。なんかトラウマみたいな言い方をしてしまったが、嫌なことではなく別に良いことでもないけど、おうおうなんか懐かしいぞ!という気持ちになる。

なにが起因しているのかはわからないが、多分いろいろと五感への刺激が多い季節であるおかげか、それまでの生活の中の節々で「あ〜〜なんかどっかのなんかに似てるけどなにかわからへん!!」という感じでド忘れした時のような気持ち悪さとして湧いてくる懐かしさが、この季節ではスパッと光景や匂いと一緒に脳みそに映し出されるので、それが気持ちいい。ぼんやりした情感というより、閃いた時の快感に近いので、これはなんなんやという感じではあるが、なんなんや。

でも、ピロウズスーパーカーを聴いている時とおんなじような感じがします。だから総じてええ季節です。

 

とはいえ、好きな季節論争に関しては、春はまだしも秋と主張するやつは友達おらんやろこの人と普通に思ってしまうし、どうせドラえもんの道具で何が欲しいかという話題でも「四次元ポケット!」とか、無人島に何を持って行くかという話題でも「船!」とか、「好きな食べ物は焼肉!」とか言うんやろと思ってしまう。なので冬が好きと答えるようにしている。

もはや冬と言ってもいいくらい今住んでいる地域は寒いので、冬である。というかそもそも「今年秋なかったくない?」という言説も「うまい棒10円じゃないらしいで?」と同等の中古感を帯びてきていて、もはや秋は存在しないしうまい棒は11円の世界であるということを受け入れた方がいい。

さておき、冬は、幸せとは一体何なのでしょうかということを知らしめてくれるのでありがたいです。単純に辛さと幸せさの振れ幅が一番大きいから、足るを知れて良い。ほらこうして不意に「辛」「幸」「一」「足」を並べてしまって、中学時代のLINEのホーム画面を変な名言にしていた時期のことも副次的に思い出せたりするしね。

めちゃくちゃな寒さから逃げてきた後のコタツや鍋を例に挙げれば、夏派の人間はめちゃくちゃな暑さから逃げてきた後のエアコンガンガンの部屋で対抗してくるが、どう考えても質が違うと思う。冬のコタツは謙虚で慎ましい「幸福」であって、学食のオクラ巣ごもり玉子であるのに対して、夏のそれは横柄で下品な「快楽」であって、ニンニクでゴリ押したラーメンやんけ!!!と思う。犬にアフレコした動画投稿してるのはお前らか!!!!という感じです。

 

無論、エアコンは気持ちいいし、しょっぱいラーメンは美味しいので、不毛なのだけれど、まあ4割パワーで考えるのはこの程度のことです。4割すら無駄遣いしてる気はするけどこれ。にしても、犬にアフレコだけはしないでほしい。

 

 

2025,8,17 三角座り

昨年はマクドナルドの中でも指折りの安さを誇るスパチキセット一本で、丸一日同じ席に堂々と居座れていたところ、今やコメダ珈琲に数時間滞在するだけで気を遣って2度の食事、3杯のコーヒーを注文するようになってしまった。これが「大人」になったということか、昨年が自分の社会的身分に甘んじて普通にマナー違反をしてしまっていただけかは考慮の余地もないとは言え、それでも先生という肩書きは2割増しで外でもシャキッとしないといけないなという感じがあります。と言うものの、夏休みにかまけて5日酔いの勢いでタチの悪い飲み会を渡り歩けることなども時々はあって安心する面もあります。

一方で一時期よく聴いていた曲の歌詞でも「ガキの頃買い続けた漫画230円の10倍が今2時間の飲み会で消し飛ぶ度白々しいが気持ち悪さに混じる」と言うていたが、時々我に帰って時間感覚やら金銭感覚やら諸々が徐々にバグっていくのを実感して白々しいとは言わずとも、「なんかもっと!!ほんまは俺は缶蹴りとかカブトムシ捕りとかがしたいのに!!!」という気持ちになる。なんせ数ヶ月前までは残高60円でヘラヘラしていたのに、今や飲み会で「貯金が〜〜」とか一丁前に言っているのが、多分友達にいたら一回本気で喧嘩するくらいまでお前図にのるなよと言いたくなる状況であって、でも多分どう考えても60円でヘラヘラしてる24歳の方がおかしいのは分かっているので、結局常に何かしらにささやかに逆張っていたいだけな気がしています。

 

お気に入りのバンドのラジオで「他の季節は郷愁やけど、夏は常に『今が最高潮』感があって好きや」という話がされていたが、多分職業柄「夏休み」というフレーズがそのまま現在も受け継がれているせいもあり昔との比較が否応なくされてしまい本当に細やかなことに対して郷愁を感じさせられるのが嫌だとまで書いたところで、郷愁とも違うなとも思った! もはや情緒的な何かを伴う営みでもなくただ昔の写真を今の時点からペラペラめくっている感覚であり、こうなったらもうお終いや、本当にカブトムシを捕獲しに行くでもなければ夏に心動かされることがなくなってしまうのではないかと怖いです。てか別に季節そのものに心動かされたい訳ではないけど。 ほんまに何の話をしているんやという感じです。コメダのシロップが甘すぎて気分悪いせい。3度目もシロップを抜くのを忘れた。

何が言いたいのか分からない、というか本来ブログに言いたいこともへったくれもないので良い、とか言い出したらブログに「本来」も何もないやろという話になってくるので結論何が言いたいのか分からないが、それでも「『〜もへったくれもない』てこれ使い方あってるんかな」と一旦検索してから文章にしてみる程度には文章表現を気にしてしまっているので一応のテーマを無理やり出してみるとつまり環世界を感じますということであろうかと思われる。今回はいつにも増してうっとおしい文章です。「うっとおしい」の「お」で大分柔和になるから正式に採用してほしい。「環世界」とはこれまた例によってちょっと賢ぶる面を小出しにしてうっとおしいねんと思うが、よく意味は分からずに使ってしまった。要するに生き物によって見えている世界は違うよねということであって、その主観的な世界のことを言いたかった。こここそ検索すべき気はするが、あえてしない!!人間とアリさんでは当然世界の感じ方も違いますし、これが人間同士でも違って、つまり猪木vsモハメドアリさんにおいても床でジタバタする猪木には猪木の世界があり、困惑するモハメドアリさんにはアリさんの世界があったんですね。夏にこそ昔を思い出しては、思い出すことしかできないということについて、そもそも世界自体が変わっているのではないかと感じるという訳である。この断絶を繋ぎ止める唯一の架け橋は井上陽水の少年時代と森山直太朗の夏の終わりだけである。

夏の話とは変わるがシロップでいよいよ酔った気分になってきたのでこのままいくと、この人によって生きている世界そのものが違うよねという考え方?感覚はある種そらそうやろというものである一方で、思いの外同じ世界、同じ感覚を共有し切れるという風に捉えている人もいるんだなということを、特に教育現場にいるとひしひしと感じる。別にそれが良いとか悪いとかではなくて、まあ個人的には全然悪いやろとは思うけどそれも人それぞれやしなと自分の意見に筋を通すために一定度納得させている部分ではあるが、「みんな分かり合える」の感覚の傲慢さたるや、と節々で思わされる。そもそも教師は大方が根明、根と言うか茎くらいまで明るい。最初職員室入ったときかぐや姫大量発生してんのかと思ったくらい地上にまで内面の輝きが透けているので、いやむしろその方が職業柄適性としてはあるんやろうけど、結局それなりに強者というか陽キャというかの論理でゴリ押してしまっている部分があり、オウオウまじかと感じる瞬間はそこそこある。これも人それぞれなのでなんとも言えないが、やはり他の人のことなどわかりっこないよねと個人的にはより強く感じるようになった。これは決して悪い意味でも諦めとかでもなく、分かる努力は精一杯できても完全に分かることはないよね、というのが相手の10数年の人生へのリスペクトなんじゃないですか!?!?!?!ええ!?!?オイ!!!!と思う。これは多分ザコであればあるほど、言葉を選ぶとスポットの当たらない負けポジの人間であるほど、さらに選ぶと安直に「君の気持ちはわかるよ」という慰めをされてしまう人間にこそ持ちうるものでありかつ相対するときに大事な感覚な気がしている。なんかええこと言うてる。 これを個人的に「三角座り視点」と呼んでいる。その辺の隅っこで三角座りしている奴は多分こういう発想してるから。の大事さをひしひしと感じることのあった夏でありました。

ついでに「分かりっこないことを分かる」とか言うと絶妙に上手く言えていなくてキモいが、そういう絶妙な距離感や温度感を日本語はなんとなく携えている感じがして日本語に感謝の念を抱いてます。日本語サンキューーーーーーー!