ギターを買った。
ちょうど一年前の今頃、文化祭にむけて顧問を務めている生徒会執行部の生徒に頼まれ、音響機材通販サイトにて約50万円の立替をしたことで付与されたポイントを利用して買った。一番安いやつ。
明日、そのギターを人前で初めて演奏する。ついでにボーカルもする。
25歳にして、ギターボーカルデビュー。
今日、初めてスタジオでギターをアンプにつなぎ、バンドでの合わせもした。
オイ、ギターボーカルてこんな楽しかったんかい。出来がどうとかの話でなく、とにかくでっかい音がアンプから流れることと、普段演奏しているドラムて外から聞いたらこんなやかましいんかいということへの興奮で終始キャッキャしていた。
これまで、教室の中に不審者が現れたら、くらいの解像度で「俺がギタボするなら」という妄想をすることはしばしばあった。そのなかで、絶対やるならGalileo Galileiをするんじゃ!!という決意をしていたが、なんやかんやあり「Galileo Galileiが『僕らのthe pillows』という動画にてカバーしているピロウズのカバー」をすることになった。要するにピロウズのカバーをしているGalileo Galileiのカバーをする。欲張った。
そのような意味不明なワガママをするに至った理由として、ピロウズの「白い夏と緑の自転車 赤い髪と黒いギター」という曲がある。実際これを明日も演奏するのだけれど、とにかくこの曲、良すぎ。全てが良すぎ。
あまりにも良すぎるので、勝手に歌詞の解釈をします。
無邪気だった季節をちょっと 引っ張り出してみたんだ
白い夏と緑の自転車 赤い髪と黒いギター
優しい人の優しい愛を 見殺しにして生き延びた
嘘をついてすり減った僕の 歌はちゃんと綺麗だぜ
綺麗だぜ
まず、冒頭の二行
「無邪気だった季節を引っ張り出してみた」結果の、四つの名詞。
そしてその後に続く三行にて、およそ現在地点にて歌を歌う自分の姿。
「白い夏」は、無邪気だった季節そのものから想起された光景であると読める。
ここで「白」を持ってくるのが、イカしている。
- あまり鮮明には思い出せない(なんせ「思い出す」ではなく「引っ張り出す」という形で想起をしているので、一定の距離感があるように思える)という色の褪せ具合を指した「白」。と考えていたが、今思うとその一方で「引っ張り出す」という言葉には、思い出化した(美化した)過去のもの というよりは姿形をそのままに、一度仕舞い込んだものをあるがままの形で顕現させる というニュアンスも感じられるような気もしてきた。
- 逆光や露出オーバーによって白飛びした光景としての「白」。後述される「嘘をついてすりへった僕」からは直視できないほどの無邪気さ、まぶしさを携えた記憶
など、「白い夏」というワードでしか言い表せない情感、あるよね。ありがとう。
「緑の自転車」も、道具としても色としても「無邪気だった季節」を象徴するものといえる。緑の自転車ってかわいい。
余談として、最近原付が動かなくなったので自転車を買ったのだけれど、緑の自転車はなかったので白いママチャリとロードバイクのハーフみたいなやつを買った。フレームに「グラスゴー」と書いてる、と思っていたが、綴りがGLASGOWではなくGRASSGOWと、まじで存在しない英単語だった。
自転車に乗ってこなかった人生なので割と新鮮な気持ちで自転車に乗っていますが、意外と自転車は進まないことを知りました。こちらの頑張りと進み具合が一致していないのに、漕いだ分だけ進むよ みたいな面をするなよ。
続く「赤い髪」「黒いギター」これはどの時点のものなんでしょう。
四つの単語が並立しているところから単純な印象としては「無邪気だった季節」から想起されたものというイメージを抱いていたが、「赤い髪」「黒いギター」というのはなんとなくかなり人為的というか「白い夏」「緑の自転車」が持つ無垢さとは対にあるような気がする。
別に赤い髪や黒いギターの奴に嫌な思い出があるわけではないけど、結構手垢がついていてどちらかというと「嘘をついてすり減った僕」に寄ったアイテムである気がする。
というより、シンプルに「緑の自転車」から連想する幼さに対して「赤髪」「ギター」は10年ほど成長しているような気がするので、時間の経過的な問題なのか。てか別に赤髪でギター担いで、緑の自転車を漕いでいる夏 という同じ時点での記憶であっても違和感はないしそれらを総括して「無邪気だった季節」と言っているんかもしれんけど、うるさい。僕の解釈では、前二つと後ろ二つでは隔たりがあるように感じます。だからなんやねんという話ではあるけど。
そして、後半の三行
ここで注目すべきは、「嘘をついてすり減った僕の歌はちゃんと綺麗だぜ」の「ちゃんと」。
これがこの曲の全て、ないしthe pillowsというバンドの全てであると言っても過言ではない。結構本気で思っている。
この「ちゃんと」ってどういう意味?
「優しい人の優しい愛を見殺しにして生き延びた嘘をついてすり減った僕」が「綺麗な歌を歌う」という事象に対して「ちゃんと」とは?
ここに、大きく二通りの解釈ができる。大前提、俺のなかで。
①逆接として(〜〜けれども)の「ちゃんと」
一般的に、ここまでの「僕」の様子と「歌が綺麗」というのは因果として一致しないように思える。人の優しさを見殺しにして、嘘をつく奴が綺麗な歌歌えるわけないやろが!!!論
これに対する弁明であり、自己と作品を切り分けた上で作品としての歌を救済する意味での「ちゃんと」が、逆説パターンといえる。
言い換えると、「こんな僕『だけれど、』歌は綺麗だよ」という文脈での「ちゃんと」である。なので、「歌」そのものの綺麗さを担保する役割を持つ「ちゃんと」。
②順接としての(〜〜だからこそ)の「ちゃんと」
一方で、「嘘をついてすり減ること」と「綺麗な歌を歌う」ことは必ずしも矛盾しないとも思える。
これは結構思想であるが、むしろ「優しい人の優しい愛」に気づいて「見殺しにして生き延びた」と自覚・独白しており、嘘をついて「すり減」る人間こそ、綺麗な歌が歌えるのではとすら思う。
つまり、「こんな僕『だからこそ』歌は綺麗だよ」という文脈での「ちゃんと」である。なので、この場合の「ちゃんと」は、自分の半生を卑下しつつも、それすらもまとめて半生を歌という手段によって昇華・救済する役割を担っているととれる。
という二通りの解釈のし甲斐があるよねとしつつ、個人的には②のパターンでの解釈をしたいと願っているし、ほぼ間違いなくこちらの意味であるだろうとも思っている。
その根拠はthe pillowsというバンドってそういうバンドだからとしか言えない。
直接的に言及するのではなく「ちゃんと綺麗」という程度に留める慎ましさと捻くれ、そういう人間臭さがたまらんよな!な!!!
サークルのOBライブに不相応な気持ちの強さと初めてのギターへの興奮が高じて痛ファンみたいなことをしてしまった。
ほんで、これを書いて一定読まれた(という希望的観測)うえで明日その人らの前でこれ歌うん恥ずかしすぎるわ普通に。
なので、非常に中途半端ですがこの辺にしておきます。