追記前書きというか言い訳
今までの書いてきたこと全てをAIにぶち込んでテーマを山月記にして出したみたいな文章になった。
追記するまでも無さすぎた。
昨日、久しぶりに山月記の授業を受けた。
久しぶりに受けるというのはどういうこと?という感じであるが、これでもセンセイをしているので公開授業やら何やらがあるため、その一環で国語科の授業見学をして擬似的に授業を受けた。公開授業でなくても、無許可で先輩の授業に乗り込んでグループワーク中の生徒にだる絡みをして無視されるということを割と日常的に行なっているが、それでも国語の授業は初めて見に行った。
そこでは山月記を文学研究的に読み解くという授業が行われており、山月記の原作となった中国の人虎伝との比較やそこについての論文3本の読解を通じて中島敦の作家観や当時の日本社会のあり方を探るというかなりめちゃくちゃに面白い内容であった。
そこでフォーカスが当てられていたのが、李徴が虎になった理由の違いであった。
簡単にいうと原作の人虎伝では「さだめ」すなわち超越的な力による変身であり、過去に犯した罪に対する天罰というような、外的な大いなるものの力 という点に留まっていたことに対して、山月記ではむしろ李徴自身の内面に原因が認められていた。というか李徴自身が虎への変身を受けて明確な答えはないものの、今までの自分の自己中具合やばかったんちゃうのという点に思いを馳せるという感じ。
まあ李徴はことごとくダサい人間であって、詩歌として大したことないのに、というか挑戦してこなかったのに虎になってもなお自身の妻子よりも自分の詩のことを考え、未練タラタラみたいなもうやめとけってお前みたいな感じである。そして厄介なことに自分でもそこに気づいて「いやこういうところが虎になった理由なんやろな」とダサ自嘲をする。
そしてそのことを的確に言い表したのが「臆病な自尊心と」「尊大な羞恥心」という2フレーズである。一見言葉の組み合わせとして捻れているが、ここは李徴に限らずどちらも本来この組み合わせであるもののように感じる。要は本心の裏返しであり好きな子に意地悪しちゃう的なノリの深刻ver.ただこれは自分でも気づいていないことが多いと思うが。
まあ25になって李徴を改めて見るとこちら側にもかなりグサグサくるものはあるんだけれど、そのうえで最近生徒と1対1で色々話す機会が多い中で思ったこととして「『内省的である』ってガチでスタンスとしてずるいよな」という点である。
本筋とは逸れて語ってしまう気がするので留めておくが、結局内省的であることは他者に指摘されたりする前に自分の中で勝手に何度も演習しているだけであり、故に指摘されても「そうなんですよね〜〜〜それはほんまにあかんと思ってて自分でも、、、」とかプライド0の負け顔をしておきながら、その実「自分でもわかってるしそんなん!」という牽制と自己防衛をしてしまっているだけなので、いっちゃんタチが悪い。勝手に自己完結するため必然的に主語が全て自分になり、自分自身を俯瞰しているようでいてとことん主観でジコチューなだけである。そしてそのことを指摘されると「自分って自己中なんや。。。」とズンと沈むものの、さらにそのショックすらも主語が自分でしかないためもう救いようがない。
ということは、そのまんま俺に当てはまるんやけどね!!!!これが生徒相手になるとこっちが偉そうに指摘する側になってしまうので、やっぱり教員という立場は人間をおかしくさせちゃうよねと思う。ほら、また「自分でもまずいなってことは自分でも気づいてます」ということを書いて「まずい連中の中でもまだそのまずさに気づいている自分はマシだ」という中途半端なポジションに着こうとしてる!!
あんまり記憶はないけど、たぶんおれはマラソンで一緒に走ろうと言ってきた人間をことごとく裏切ってきたタイプの小学生だったと思う。
結局逸れてしまった。
まあでもこれは言い出したらキリがないし、というか今指摘されたところでその人自身の問題というよりは一種の防衛反応だと思うので簡単になおしなさいとも言えないと思う。自分自身に対しても。
追い逸れしてしまった。
なんの話かわからんくなったが、山月記の李徴をみて、こいつガチだっせえ〜〜〜と思うと同時にガチ俺も〜〜〜〜と思ってしまった。あかんまたダサ自嘲して虎になってまう。
俺も〜〜〜というよりはガチ人間〜〜〜〜と思った。論文では、虎になってしまった姿を自ら人前に晒すという行為を選択した李徴の様子を切り取り、獣的であればあるほど、人間的になっていく ということが要するに逆説的に言われていて、これはかなり大事なこと言ってるんちゃうか?と思った。
結局自分のこれまでのなんやかんやを抽象化したらぜんぶ同じこと言ってるんやけど、この虎になった自分を認めてその姿で人前に出るかどうかで俺は出ろよと思うということなんやと思う。どういうこと?
虎にならないことは無理。もう無理無理。人間って基本ダサいから!でもそこで認めて人前に出るかどうか という点で真に「内省的」であるかどうかが問われんちゃうの?と感じた。どういうこと?
要するに、なんかやれよという話。
今年はなんか書く系でこのブログじゃなくてどこかに出したりしてみようと思った。世間に出して才能のなさを実感する過程というものは、人間であるために重要である。そしてこれが案外落ち込まないというか痛快なものである。めっちゃ好きな子に思いっきり告って思いっきり振られる奴、人間すぎるからな。
ということで、みんなvlogもしよな!!!