2024,4,5-8 能登半島

桜がいい具合に咲いてきた。

社会人になった友人達が初めての週末を迎えて飲みに行ったり愚痴を言ってるストーリーがたくさん流れてきて、なんとなくやっぱりソワソワする感じがする。

 

一月に能登半島地震が起きて以降、所属団体のディレクターや周囲の人たちが個人的に様々な形で災害支援を続けている。この三ヶ月間で彼らが何度も神戸と能登半島を行き来して現地のスタッフ・ボランティアの方々などとやり取りをする中でできた繋がりから、今回自分も初めて能登半島に行った。

 

今回、災害支援に行くにあたってかなり迷いはあった。

これまでのボランティア活動や私生活の中での動機として大きかったのが、「自分がこうありたい・役立ちたい」という純粋な気持ちというよりもむしろ、電車や大学で何も考えず無責任にフラフラしているおっさんや大学生を見て「こうはなりたくない」と思うところからくるものであった。

 

高校時代、通学中に駅で誰もが見える位置に明らかに落とし物の鞄があるのに、全員そこを避けて見て見ぬふりをする場面に遭った。その鞄を駅員に届けようとしたら、戻ってきたであろう持ち主が「それ、僕のなので」と自分の手から乱暴にぶん取って行ったことがある。

高校帰りの電車内で、まだ中身の入ったコーヒー缶が電車の動きに合わせて車両内をずっと転がっている場面に遭った。コーヒーをぶち撒けながら何駅分も放置されている缶と、水溜りを避けて車両を移動していくおっさんが見ていられなかったので、自分が降りる時にゴミ箱に捨てて帰った。その時に、一緒にいた友人に「お前、えらいな」と言われて無性に腹が立ったことがある。

全部、ただの善意ではなかったと思う。こんなしょうもないことをわざわざ無視して誰かに押し付けてる奴らがきしょすぎて、そいつらへの当てつけとして自分が処理をした、の方が正しいと思う。本当に些細な出来事であったが、自分の動機の不純さとそれに気づかず「えらい」と言ってくる存在の違和感があまりにも印象的で、ことあるごとに思い出す。

 

ただ今もそれはあんまり変わってなくて、何か選択をするときに「こうしたい」「こうありたい」という選び方ではなく「こんなんにはなりたくない」という消去法と義務感に駆られることが多い。

結果的にそれが誰かのためになっていたとして、完全な利他精神ではなく利己的な利他であるという気持ち悪さが未だにある。大学四年間で、少しづつ「誰かのために」という純粋な思いに触れる機会もある一方、常に「結局それってただの自己満ちゃうん」という考えが浮き沈みしている。

 

そんなこんなで、自分が災害支援に行くかどうか考えた時に、こんな仮言命法でのボランティア活動が果たして誰のためになるんだ、と思った。「就活で使えるから」と安易にボランティア活動に参加してちょうど良くエンジョイしてる人間と何が違うねん、と思った。

結局、断る勇気も無く、あるいは「ボランティア活動しない自分」になる道を避けるために、今回災害支援に行くことにした。

 

 

 

5日の夜に能登七尾駅に集合であったため、昼行便バスで京都から金沢まで向かった。

今回能登で活動するにあたり、これまでの災害の経緯や現状を知っておかないと、と思い、バスの乗車中は情報収集をしていた。隣に座った、恐らく金沢に帰る最中である大学生らしき男は、MacBookの大画面で5時間ずっと違法漫画サイトと風俗の情報を見ていた。

 

金沢から電車で1時間半、七尾駅に降り立つと、すぐに地震の影響が至る所に見られた。地面の煉瓦は割れて盛り上がり、ガラスの割れた建物もあった。

一緒に移動していた友人が、「ばあちゃんが石川に住んでて、嫌なことがあったら七尾の海までバスで来てストレス発散するねんて」と話をしていた。ヘッドライトで照らしながら海まで向かうと、当然ではあるが駅前よりも酷い様子だった。ベンチが設置されていたであろう部分が、地面ごと大きく海に張り出していた。

よく災害直後の夜空は驚くほど綺麗だったという話を聞くが、その時も空がめちゃくちゃ綺麗だった。あんなに星をはっきり見たのは久々だと思う。

 

七尾駅から、自分達の活動拠点まではさらに車で1時間半ほどの場所にあった。道中、地割れや隆起、土砂崩れの影響で常に道は悪く、乗っていたハイエースはずっとバウンドしながら進んでいた。地震から三ヶ月が経ち、ようやくインフラは突貫工事で整備されつつあるものの、マーブル色のアスファルトや宙に浮いた状態のガードレール、不自然に浮き沈みしている道路は災害の影響を強く感じさせた。

グーグルマップはすごいもので、通行量などの交通情報をリアルタイムで収集するおかげで、交通量の激減=道路状況の異常 と判断してその道を避けるようになっているらしい。おかげで道が途中で完全に遮断されるということはなかった。

 

深夜の1時ごろに、宿泊先に到着した。ボランティアセンターのすぐ隣に位置する、旧消防団詰所を拠点として提供して頂いた。

本来、現在も県外からのボランティアは受け入れていない(受け入れ先や食糧・水等の問題による)が、企業や団体であれば、一定の条件を満たした上で様々な登録を経て県外からも参加できるということだった。

我々は普段野外でキャンプをしている為、食事や水の使用等、全て自分達の責任の内で自己完結できるということで受け入れて頂けた。ただ、ここに至るまでにも二ヶ月以上要しており、行政や組織の難しさを感じた。今回の復興の手際の悪さには、やはりボランティアの扱いが大きな要因としてあるという。不要不急の支援を牽制したところ、必要緊急の支援すら行き届いていないという印象を受けた。

 

活動の流れとしては、各地域に設けられたボランティアセンターに向かい、人数や力量に合った被災者からの依頼とのマッチングを受ける。依頼に応じて、トラックなども出しながら適切なチーム編成が行われ、依頼者の要望を聞き取りながら現地で活動を行うというものであった。現状、最低限のインフラの復旧は出来たが瓦礫の撤去などが何一つ進んでいないため、主に居住地域における瓦礫の撤去・運搬がメインの活動であった。住居によって被害の幅はあるものの、津波で一階部分が丸ごと持って行かれた家や、煉瓦が崩壊したために雨漏りがひどく、家中水とカビに侵食された住居、大きな岩が思いきり突っ込んだ寺などに向かった。

 

 

 

以下、団体のメンバーが作成した報告文

 

B日程 1日目
4月6日(土)8:45-14:30 作業 
地区 さん宅
 今日は朝から夕方まで、さん宅にて、倒壊家屋の外に出してある災害廃棄物の分類、撤去、運搬をしました。
 玄関の前には、倒壊した家屋のがれきや木材、家電、家具、割れたガラスや食器などの災害廃棄物が山になっていました。そして、倒壊した家屋の木材は、非常に重い柱、釘がささった状態がほとんどで、20歳前後の私たちでもかなりの力仕事だと感じる程でした。しかし、ご夫婦が代わる代わる私たちの作業しているところを歩き周りながら、「ほんと、助かります。ほんと、ありがとうございますね。」と声をかけてくださいました。ほとんどが捨てるものとお聞きしていたけれど、途中、やはりとっておきたいと最後に伝えてくださるものもあり、その度に、私たちが今関わらせてもらっているものは、宮本さんたちの生きたすべてであることを感じ、なんだかこう、ぐっときました。
 昼後は作業の休憩も兼ねて、白丸公民館を伺いました。そこでは、さんから、新しい仮設住宅のお話しや津波が来た時のお話しをききました。
 旦那さんが、「能登はやさしさ土までも」このことわざを教えてくれました。その言葉の通り、さんは生まれも育ちも能登、海が好きで海が遊び場で夢は海の仕事をすること、その夢を叶え定年した今もそしてこれからも能登に住み続ける、そう仰っていました。それまで笑顔で元気だった奥さんは帰る時、突然溢れんばかりの涙を流して「本当に皆さんが来てくれて助かった、有難う。  でも、情けないね。」と言っておられ、そんなこと、絶対思わせてはいけないと思いました。今日は、災害廃棄物の撤去を主にさせてもらって、それらは一件形もなくて崩れていてはやく撤去した方がいいと思うかもしれないけど、私たちはさんの思い出がつまった家なんだ、ってことを手を動かしながら絶対忘れてはいけない、そう思い、言葉を交わしながら作業をすること、とても大切だと思いました。

 

B日程 2日目
4月7日(日) 8:30〜12:00作業
地区 寺(真言宗) さん宅
作業内容: 家屋周辺の屋根瓦片付け、落下物、木材撤去、ウッドデッキの解体撤去

立派な日本家屋のお寺の本殿と、隣接した住居の周りには、地震によって落ちて割れた沢山の瓦があり、主にその撤去作業。住職のお父さんとお母さん、息子さんご夫婦と作業を行った。
「自分たちでやるつもりだったんだけど、限界でお願いしました。」申し訳なさそうに出てこられたお母さん。段々と綺麗になっていき、「やっぱりこっちも、これも運んで欲しい」と表情も明るくなった。軽トラで7回分の瓦、Yバン満載の網戸・撤去したウッドデッキの木材の運搬。「元々1日で終わらないと言われていたのに、午前中で終わるなんて思ってませんでした。本当にありがとうございます。」【完了】


12:45〜15:30作業 【継続】
地区 さん宅
作業内容:津波で流れた瓦礫の撤去と運搬、家具の取り壊しと運搬、瓦礫の分別

納屋と母屋の一階部分は家具、家電、衣類すべてが海水と泥で汚れ、隣の家の家具などが流れ着いている状態。車を3台停めるためにまず駐車場を綺麗にして欲しいと始まった作業。母屋で家具の取り壊し運搬。泥の中から出てくる想い出の品。母子手帳や写真は家主に聞き、処分。涙目で作業を見守っていた。庭では津波の影響で絡まり合った瓦礫の分別。15時の集積所終了時間後、次回のボランティアが作業しやすいように分別・整理整頓。軽トラ5回、Yバン満載1回。【継続】

【さん】
さんご家族と瓦礫の撤去を一緒に行う中で、地震後すぐにご本尊をたてに倒壊した家屋に戻られたという話を聞きました。上日寺は細くて急な坂道を登った先に森に囲まれた450-500年の歴史があるお寺です。
ボランティアは住居での活動が優先だ、ということで自分たちで作業をされてきたそうですが、今回お手伝いをしてそれがどれだけ大変だったのかということを感じました。瓦は分厚く1枚1枚が非常に重く。「何回か腰が砕けたかと思ったわ」と笑って話すお父さん。今回男手が7人いる中でも大変な体力を使う作業でした。
「1月1日から時が止まってるんだよ」このお母さんの言葉の通り、家に突っ込んだ大きな石も、割れた窓も、落ちている瓦も、全てがその時の一瞬の地震によって起こり、そこで止まっていると感じました。
「来てくれて本当にありがとうございました。こんなに綺麗になるなんて思ってなかったです。お願いしてよかった。」またこのお寺、ご家族の時間が動き出すお手伝いができたことが何よりも嬉しかったです。

【さん】
口数少なく、涙目でウロウロされていたお父さん。片付けも、「もう取り壊すだけやから大きいの退けてもらうだけで大丈夫です」と。泥の中から出てきたさつまいもやにんじん、聞いてみると「農家だからこれは作ったんや」と少し笑みを浮かべて話をされていました。瓦礫の中から出てきた写真には娘さんの結婚式で一緒に写っているお父さん。自分たちにできることは、と改めて心が締め付けられ、力が入った瞬間でした。

 

4月8日(月) 8:50~13:30 作業
地区 さん宅
準半壊の判定がでているお宅での作業。割れ物、瓦の廃棄。大型家電なども一緒に使えないものは廃棄。判定は終わっていないが瓦が外れ、雨漏りのためカビと木材が腐っており、二階には侵入不可能。襖、畳、カーペット、仏壇、外回りの園芸用具、瓦の撤去、床下収納の瓶類の廃棄。2トントラック3回満載、Yバン2回。
雨に濡れたことで家の中全体が水浸しで、カビが生えている中での作業。濡れた畳などは重く男手の活躍。【完了】

明るめの声で話されているけど、やっぱりどこか元気のないお母さん。「ほんとは住みたいけど、難しいよね。」と生まれ育った能登だからと丁寧に作業されておられました。額縁に入った、女性の顔が載った新聞を見つけると「これ、私なんだよ」とふっと張っておられていた気が軽くなるように笑っておられました。子ども服の責任者をされていたみたいです。帰る時に「きれいにしてくれてありがとう」と深々とお礼をされました。何回もボランティアが入っておられ、やっと終わりが見えたように精神的にも果てしないなと思いました。全てを感じ取ることはできないけど、少しでも元気がでるように動きたいです。

 

 

 

男手は瓦や箪笥など力仕事が山積みであったためあまり被災者の方と直接話す機会はなかった。

しかしその中でも、泥と瓦礫の山で彼らの家族や友人との写真、母子手帳や旦那さんの遺骨、仏壇などを見た時は胸が締め付けられた。

一つ一つを名残惜しそうに眺め、一見ガラクタのように見えるものですら、苦虫を噛み潰した顔で「これもどうにもならんから、捨ててしまってください。仕方ないです。」と話す表情は忘れられなかった。

 

正直言って地震発生から三ヶ月経過しているとは到底思えない景色だった。現状でボランティアセンターへの依頼はその地域だけでも700件を超えるという。 長年住んだ家、ましてや高齢者の方が多い中、ぐちゃぐちゃになった自分の家や思い出の品を自分の手で片付けるなんて想像に耐えない。作業量としても途方もないが、それ以上に精神的に背負い切れるものではないだろう、と思う。この三ヶ月間、その絶望の中で支援を待っていたのか、まだ700件以上もそのような人たちがいるのか、と考えると、やるせなくなった。

また、二日目に向かった寺の息子さんは非常に明るく聡明な方で、我々と一緒に声を出しながら作業を手伝ってくださった。被災前は、キャンプや登山に没頭していたエネルギッシュな方だった。作業が終わり、改めて依頼書を読むと「初めは遠慮して自分達でなんとかしようと思いましたが、限界でした」と書いてあった。あんな人でも「限界」に感じるほどの辛さは、自分には想像できなかった。

また、その方も「被災直後は、当てつけかと思うほど景色が綺麗だった。星も空も、息をのむ美しさで涙がでた」と話をしてくださった。

 

 

二日目には、より被害の大きな地域の避難所を訪問した。所属団体の、富山支部の方が運営する避難所であった。

テレビでよく聞く輪島に位置するその避難所周辺は、我々でも立ち入りが禁止されるレベルの倒壊家屋で溢れていた。トイレやお風呂も仮設トラックで、避難所では弁当で栄養補給としての食事を摂っているという。

人気の無い廃れた街を抜け、避難所である小中学校の前を通ると、小学校中学年くらいの女の子が、低学年かそれより小さいくらいの男の子と女の子の手を引いて楽しそうに走り回っていた。思えば、能登に来て初めて子供の姿を見た。 想像以上の惨状に唖然とする自分達とは対照的に、無邪気に笑う子供達の後ろ姿はとても印象的だった。

避難所となっている木造の学校は、まだ木の香りがするほど新しく綺麗な建物で、教室前の掲示物や発表資料がそのままに残されていた。この地域の子どもたちは、翌日から学校が始まるということだった。

 

 

帰り際、バンの中でディレクターが「普段やってることが初めて役に立ったな。お前らも初めてちょっとは人の役に立てたんちゃう。生きてて良かったやん」と言っていた。普段鬼監督のようで、男子を褒めることはほとんど無いディレクターからの冗談まじりの褒め言葉は嬉しかった。また、「やっぱり、自分の為じゃあんなに動けへんよ。今回も被災者の方と話したら頑張ろうって一層思えるようになったみたいに、誰かのためにじゃないとこんなに力を出すことはできないから。」と言っていた。

自己満足で利己的な利他精神からボランティアに参加していたつもりだったが、途中からは現地の方達の役に立てること、直接これまで受けたことがないくらい大きな感謝をしていただけること自体が喜びになっていたような気もするな、と気づいた。 

 

よく考えたら諸々合わせて2万近く自費をかけて一日中働いたこの数日を振り返って、「来て本当によかった」という思いが始めにくるだけ、少しはマシな人間になってきているのかもしれない。

 

今回の能登を踏まえて、もっと現地の方の役に立てるようになりたい、と思うと同時に、今現在自分の周りにいる人たちもこれまで以上に大切にしないといけないな、と感じた。これはありきたりすぎて不要な感想だったかも知れない。

 

 

今乗ってる阪急でちょうどBeRealが来た。

向かいの女子大生が車内でぶつぶつ言ってるヤバめのおっさんの隠し撮りをしてニヤニヤしてる。ウケると思ってるんか知らんけどそういうお前の汚さもハッキリ写してて確かにこの上なくBeRealやな。皮肉やな。こんなやつにはならんとこ。 と思った。